(またるーちゃんの体に傷をつけてしまった)
少し落ち込みながら、保健室のドアをノックした。
(もう私ってば、ボールを前にすると我を忘れてしまうんだから…)
「あら、白石さん。あら、あら!」
私が入って来たのを見ると、保健室の先生は嬉しそうに笑ったが、膝から血が滴り落ちているのを見ると、驚いたように目を見開いた。
「早く、ここに座って」
てきぱきと消毒の用意をしながら、先生が言った。
「今度は何?」
「サッカーです」
消毒液が傷周りに吹き付けられる。痛みに顔をしかめながら、私は答えた。
「白石さんが、サッカーか。面白い組み合わせね」
先生は慣れた手つきで、透明な軟膏を塗ったあと、大きな絆創膏を貼った。
「でもそんなに頑張らなくていいのよ」
私の肩を軽く叩くと、ベッドの方を指さした。
「今日も休んでいきなさい」
三つ並んだベッドに目を移すと、今日は真ん中のベッドにカーテンが引かれていた。
時計を気にしている私を見て、先生は安心させるように言った。
「この時間だけでもいいから、体を休めて」
白石透と付き合いが長い先生は、体の弱さを心配しているのだろう。
私は大人しく頷き、ベッドへと寝ころんだ。
体は全く疲れていないと思っていたのに、全速力で走ったせいか、布団をかけた瞬間あっという間に睡魔に襲われた。

―白い世界に一人佇んでいた。
(ああ、夢か)
私は辺りを見渡した。誰もいないが、向こうの方に何かがぽつんと浮かんでいるのが見える。
近づいてみるとそれは、胸の高さまで浮かんだ丸鏡だと分かった。
そこを覗き込んで私は、はっと息を呑んだ。
短髪の黒髪に浅黒い肌、一重で切れ長の瞳が私をじっと見つめていた。26年共に過ごした、杉崎凛子の姿が写っていた。
「私だ…」
私は手を鏡にかざした。全く同じ動作をするかと思っていたのに、鏡の中の自分は動こうとしなかった。その代りに、にこりと笑い、聞き覚えのある自分の声で言った。
「そろそろ解放されていいのよ」
思わず息を呑み込んだ。
「あ…」
まるで言葉を盗まれたかのように、何か言いたくても声が出て来ない。
「もう、何度も思い出さなくても大丈夫。私の為に生きなくても大丈夫」
生前の自分の声なのに、話し方はどこか落ち着いていて、まるで気品のあるお嬢様のような…
(貴女は、もしかして、貴女は…!)
私は鏡に手をかけた。
しかし突然、鏡が霧に包まれ始めた。鏡の中では、まだ何か伝えたいことがあるのか、杉崎凛子の声が聞こえたが、何一つ聞きとれなかった。
「ま、待って…!」
手を伸ばしたところで、私は目を覚ました。荒い呼吸を落ち着け、もう一度瞳を閉じた。しかし、思い出そうとすればするほど、砂のようにサラサラと消えて行く夢。
(大切なものだった気がするのに…)
しかし、諦めて再度目を開けた。見覚えのある白い天井が目に入った。
(あ、そうだ。保健室にいるんだっけ・・・)
「大丈夫?」
突然目の前に顔が現れ、私は「ぎゃあ!」と飛び上がった。
心臓がはち切れんばかりに脈打っている。
「そんなに驚く?」
どこかしょんぼりした顔で、五十嵐が言った。
「な、なんで、あなたが…」
「後から来たのはそっちでしょ」
隣のベッドに腰かけながら五十嵐が言った。閉じられていたカーテンは今やオープンになっている。
「話し声が聞こえたから、起きちゃったんだよね」
「…え?」
嫌な予感がしながらも、五十嵐の視線の先を辿ると、椅子の上で不機嫌そうに足を組んでいる天城がいた。
(先生―!もう婚約者じゃないって知っているのに、なんて呼んじゃうかなー!!)
私は布団に突っ伏し、一旦深呼吸をする。それから、バッと顔を上げて天城に顔を向けた。
「ごめんなさいね。次回からは呼ばないように、先生にはちゃんと言っておくわ」
「手」
聞いているかのかいないのか、天城が低い声で言った。
「手?」
そう言われて私は自分の手を見た。私の左手が、しっかりと天城の手首を握っていた。
「あ、ごめん…なさい!」
慌てて手を離す。
(ヤバい。他にも何か失態犯してないでしょうね。ああ、だから人に寝ているところ見られるの嫌なんだよ~)
穴があったら今すぐ入りたい面持ちで、私はベッドに沈み込んだ。
「じゃあ、俺はこれで」
天城はそのまま立ち上がり、さっさと保健室を出て行った。
意外とあっさりその場からいなくなった天城に、私はどこか拍子抜けした。
「あれ、てっきり怒られるかと…」
例えば、「汚い手で触るな」とか「俺は暇じゃない」とか言いわれるかと覚悟していたが。
「なんか後ろめたいことがあるんじゃない」
どこか楽しそうに五十嵐が言った。
「君、本当飽きないね」
「さいですか…」
とりあえずそう返しておいた。
天城の行動に私は首を傾げたが、余計なお叱りを受けなかったことに安心していた。