「まぁ、とりあえず僕からは言わないけど…。」

「で、今日はどうすればいいんだ?」

本題に戻り、学が真顔で言う。

「今夜、その若旦那が贔屓にしている花魁の座敷に、旭も出るらしいんだ。ただ、条件があって…兄さんも連れて来て欲しいって言われたんだけど、知り合いなの?」

呉服屋の若旦那?
同級生にいただろうか…ピンとくる奴はいない。

「さぁ、覚えがない。
だが、それが条件なら行くしかないな…。仕事を調整して行くようにする。何時だ?」

「19時に花街の赤門。車で行くなら俺も乗せてよ。」

「分かった…会社に30分前に来い。」

「了解。じゃあ、それまで時間潰してるよ。莉子ちゃんには会いに行く事言ってもいいの?」

どうだろうか…?会ったところで連れ帰れないのなら、辛くさせるだけではないだろうか…。
少し悩む。

「兄さんって、莉子ちゃんの事になると急に慎重になるよな。普段は即答なのに。」

弟に指摘されて気付いたが、確かに莉子の事になると途端に臆病になる。判断を迷うのは…嫌われたくないからだ。

「そういえば莉子ちゃん、昨日俺のためにわざわざだし巻き卵作ってくれてさぁ。前の時に麻里子の焦げたヤツだったから。
良い子だよねー。擦れてなくて心が綺麗で気遣いも出来る。兄さんが羨ましいよ。」

「どう言う意味だ?
莉子は俺の婚約者だ。あまり気安く話しかけるな。」

面白くない俺はつい、子供じみた嫉妬をしてしまう。

「兄さんから奪おうなんて、これっぽっちも思ってないよ。勝ち目は無いからね。
だけど…俺も結婚するならあんな子がいいな。」

「…そう思うなら、もう少し真面目に大学に通うべきだ。」

「ちゃんと行ってるよ。
これでも単位はもう取れてるし、後は卒業を待つばかり。どうせ、会社に入ったら兄さんみたいに馬車馬のように働かされるんだ。今のうちに精一杯遊んでおこうと思ってるだけだ。」

自由な時間をおおがしている弟を、若干羨ましく思いながら、俺には莉子が居てくれるんだと思い直し、午後の仕事に戻る。

ただ…莉子に会いたい。

取引先の商談中に関わらず無性にそう思う。
一目会いに帰れないだろうか…

この後、3時からの挨拶回りが一件入っているが前倒しせて、家に一度戻っても…と頭の片隅で思案し始める。

この商談を早いところまとめれば、30分確保出来るかもしれない。

そう思い、さっきよりも仕事にも熱が入った。