「そう言えば、お名前をまだ聞いていませんでしたね。良かったら教えて頂けますか?」

名前なんて教えてしまって良いのだろうか。後でもし、東雲家から何か言われたらと心配になる。

「あの…私はただの女中です。名乗るほどの者ではありません。」
これ以上聞かないでと、首を横に振る。

「…っ痛い…。」
それだけで傷がシクシクと痛み、思わず手のひらで頬を抑える。

「ああ、また口元の傷口が開いてしまったようです。」
あまり口を開かないように気を付けいるのに、なかなか塞いでくれない。千代さんが慌てて血をふいてくれる。

「ごめんなさい。私がおしゃべりをさせてしまいましたね。もう少し横になっていて下さい。」
そう言って私を寝かせてくれた。

お行儀が悪いけど、寝ながらバナナを少し食べる事になる。でもそのおかげで、横になって食べる方が痛みが少ない事を知る。腫れた側を上にすると、傷口に当たらず食べる事が出来た。

「とても…美味しいです。」
ここ最近、何かを食べて美味しいと感じる事なんて無かった…。それだけ心がすり減っていたんだと思う。

それと同時に、そんな事を思う事は許されないんだと罪悪感で一杯になる。

私はこの家にとっては憎き敵…その事を忘れてはいけないわ。

「もう少しお食べになりますか?」
千代さんが優しく接してくれるから、大事な事を忘れてしまうとこだった。

「いえ…もう大丈夫です…。」

私は紀香お嬢様の身代わりなんだから…この家の嫌われ者…。慣れ親しくなる事は許されないんだ。

そんな事を思っていると、
不意に襖の向こうから声がかかる。

「千代さん…ただ今帰りました。入っても良いかしら?」

「あら。おかえりなさいませ。」
千代さんが襖を開けて誰かを出迎える。

「今ちょうど起きていらっしゃいます。どうぞ入って下さいませ。」

誰だろう?寝ながら何気なく見ていると、

少し足を引きずりながら、千代さんに支えられて近付いて来る。 海老茶袴の女学生姿で三つ編みを結っている。にこりと笑顔が可愛らしい…。

ハッとして、私は急いで布団から出て正座をして頭を深く下げる。

「良かったわ…意識を取り戻してくれて。
兄が手をあげた事、それに怪我をさせてしまって本当にごめんなさい。
私の為にそうしてしまった事なの…
本当はとても優しい兄だから…
決して、誰かを傷付けるような人では無いんです。」
そう言って逆に麻里子様が頭を下げてくる。

「あの…こちらこそ、麻里子様にお怪我を負わしてしまい…本当に申し訳なく思っています。
私が代わりにお詫びさせて頂きます。
本当にこの度は申し訳ありませんでした。」
私も畳に頭を擦りつけるように深く下げる。

「頭をお上げになって下さい。」
それなのに優しく声をかけられる。

驚いて思わず頭を上げてしまう。

「貴方が頭を下げる事はないわ。貴方だって被害者なのよ。…大変、口元に血が…。」
麻里子様が着物の袂からハンカチを取り出し、血を拭おうとしてくれる。

「だ、大丈夫です。ハンカチが汚れてしまいますから…。」
私は慌ててそれを止め、自分の指で口元を拭う。

「横になっていて…。まだ、起き上がっては駄目よ。」
なんで優しい人なんだろう…
私は泣きそうになるのを堪えて、言われるがままに布団に入る。