突然、長谷川司が椅子から立ち上がり、こちらに近付いて来るから、私は慌ててドアから退いて立ち去ろうと背を向ける。

「亜子殿、こちらに用があったのだろう?俺は居間に行くから入るといい。」

そう呼び止められて、若干の気まずさを覚え、私は俯きこくんと頷き台所にと足を戻す。

「亜子ちゃんどうしたの?今日は長旅で疲れたでしょ?休んでくれててよかったのに…。」
お姉様が料理の手を止め、パタパタと私のところに来てくれる。

「何か…私でも手伝える事があればと思って…。」

「ありがとう。もう、お料理はほとんど完成したの。
じゃあ、盛り付けをお願いしよかしら?」
お姉様は優しく花のように微笑んでくれる。

「分かりました。」
菜箸を持ち、見様見真似で小皿に料理を取り分けていく。どれも私が好きな物ばかりで嬉しく思う。

「亜子ちゃんは煮豆も好きだったよね?
今、沢山作って煮込んでいるから、これは明日の朝に出すね?味見してみる?」

小皿に少し煮豆を乗せて、手渡してくれる。

「ありがとうございます。」

それをそっと受け取ってひと口食べてみる。
「…美味しい。」
思わず口から出てしまう。
甘さも控えめでそれでいて醤油の香りが立っている、私好みの味付けだった。

「良かった。もうちょっと煮込めば、明日にはもっと柔らかくなるから。」
お姉様は嬉しそうに笑う。

「お姉様は料理が得意なんですね。」

「必要にかられて、作っていただけに過ぎないんだけど…ここに来て、司さんが何でも美味しいって沢山食べて下さるから…。最近はお料理も他の家事も楽しいわ。」
お姉様は幸せそうに言う。

「それは…良かったです。」
私は長谷川司をまだ信用出来ずにいるから、素っ気なくそう応えるのみだった。

4人分の膳が整い食堂に運びながら、お姉様は隣の居間にいる長谷川司に声をかける。

食堂は10人以上座れるような、西洋風な大きな机がドンと置かれた広々した部屋だった。4人でも寂しげなのに2人ではもっと寂しいだろうと少し立ち止まる。

「ここの建物は元々、西洋からの客人を招く為に司さんのお父様が建てられたらしいの。
2人だけでは本当に持て余してしまうくらい広いから、気にせずずっといてくれてもいいのよ。」
そう言いながら配膳して行くお姉様に従い、私もそれを手伝う。

「そこまで後厄介になる訳には…だけど、料理が出来て損はないから、私にも明日からお料理を教えて下さい。」

「そうね。出来て越した事はないから、明日からよろしくね。お兄様と2人の時はどうしていたの?」

「お兄様が…何となくの料理を…。味が微妙で外食も多かったです。」
正直にそう話す。

「それは大変…。いくつか簡単なお料理を教えるわね。」
お姉様は笑いながらそう言って、
「お兄様を読んで来るから少し待っていて。」
と食堂を出て行ってしまう。

入れ違いに入って来た長谷川司と2人。
気まずい空気が流れ出す。

彼は何食わぬ顔で席に着き、兄が酒を飲めるかと聞いて来る。

「さぁ、どうでしょうか?たまに酔って帰って来ましたが…さほど強くは無さそうです。」
私は適当に答えを返す。

今だったら聞けるだろうか?
少し緊張しながら向かいの席に腰を下ろす。

「あの…一つ聞きたい事があるのですが…?」
私は思い切って話を切り出す。

「ああ、何でも聞いてくれ。」

長谷川司は真っ直ぐに私を見てくる。

見目の美しさは、初めて会った時に目を奪われるほどだったけど、こうして向かい合って目を合わせたのは初めてかもしれない。

吸い込まれてしまいそうな、強い眼差しは何の感情も読み取る事が出来ない。

怒らせたら怖い人、なのかもしれない…。
そう思うと気持ちが怯むが、今はしかないと勇気を奮い立たせる。

「なぜ貴方のような人が、没落令嬢である姉と政略結婚したのですか?貴方ならもっと選び放題だったんじゃないですか?」

長谷川司はフッと笑う。
「俺は世間から冷酷な男だって怖がられてる存在だろ?君が警戒するのはよく分かる。

見合い話しはいくつかあったが、結婚だけは自由にしたいと前々から思っていた。
莉子から政略結婚だと思われても仕方ないが…単純な話し、俺が彼女に側にいて欲しいと思ったんだ。」

聞き漏らしそうになるほどサラッと言う彼の目は真剣そのもので、嘘偽り無さそうだ。

「姉を助ける為だけでは無いと?」

「それは勿論だが、俺自身の為だと言っても過言じゃない。ただ、莉子の笑顔が見たかった。
初めて会った時は虐げられてきた6年の間に、笑い方も…全ての感情を忘れてしまったかのようだった。
だから、これから先はずっと笑顔でいて欲しい。それだけが俺の望みだ。」

多分…きっとお姉様にはこの人の気持ちの全ては、伝わって無いのかもしれない。

だけど、とてもシンプルな話しだったんだ…。

「少し安心…しました…。
貴方がもしも、世間で言われている通り冷酷な人だったら、私はこの結婚に反対でした。例え花街から救い出してくれた恩人だとしても…。」

司は分かっていると言う顔をして、
「君を助けたのは単に莉子の笑顔を見たかっただけだ。君が俺に対して気を遣わなくてもいい。」

冷たく拒絶されたようだが、それも彼の優しさなんだと不思議な事に今は分かる。

「姉をどうかよろしくお願いします。」
亜子が頭を下げると、

「こちらこそ。」
と、司も頭を下げてくる。

お姉様は片思いだと思っているようだけど、そんな事はないよと教えてあげたい。むしろかなり溺愛されてるんじゃないかと思う。

きっと、彼は余計な事はしなくていいと言うだろう。