ダメだ。
これじゃあ、何もかも彼の思う壷。
逃げなきゃ。
早くここから。
取り込まれそうになる、自分からも。
そう意志を固めようとした直後。
ふと前方に映ったある人物を視界に捉えた瞬間、私は勢い良く八神君から顔を離した。
「……渚ちゃん」
そして、震える声でその名を口にした途端、八神君も私を抱き締めたまま徐に後ろを振り向く。
それから、一気に凍りつくこの場の空気。
お互い視線を合わせたまま一言も発する事なく、私達の間に妙な沈黙が流れる。
一体いつから見られていたのか。
渚ちゃんの真っ青な表情を見る限りだと、もしかしたら少し前から居たのかもしれない。
自分も夢中になっていたので全く気付かなかったけど、もう言い逃れ出来ない状況に、頭の中が次第に真っ白になり始めていく。
「……あ。あの、ご、ごめんなさい。……お、お邪魔しましたっ!」
すると、震える声でようやく口を開いた渚ちゃんは、かなり動揺した様子で頭を深く下げると、踵を返して勢い良くこの場から駆け出す。
「待って、渚ちゃん!」
そんな彼女を追いかけようと、私も咄嗟に椅子から立ち上がり全速力で走る。
しかし、引き留めたところで何て言えばいいのか分からない。
常日頃から私を尊敬していた渚ちゃんだけど、これで軽蔑されたかもしれないし、私の顔も見たくないかもしれない。
それでも、彼女を放置する事だけはしたくなくて、私は余計な考えを振り払い、ただひたすら彼女の後を追い続けた。