「あ、亜陽君!?」

一体いつから背後に立っていたのか。
聞かれてはいけないような会話は特にしていないけど、反射的に身構えてしまい、冷や汗が滲み始める。

「この前はどうも。困るんだよね。俺の婚約者にちょっかい出されると。あまり度が酷いと、それなりの処分も検討するよ?」

「あ?そもそもあんたらがくだらない真似したのがいけないんだろ。それに、生徒会長のくせに随分と私情で動くんだな」

「そもそも君はこの学校の害みたいな存在だから、然るべき対応だと俺は思うけど」

「それなら、始めからそれを黙認してる教師連中に言えよ」

何やら一触即発な空気に、間に挟まれた私はこの場をどう収めればいいのか分からず、たじたじになってしまう。

亜陽君はあまり感情を表に出す人じゃないけど、いつになく敵意を剥き出している様子を見る限りだと、内心かなり怒っている。

八神君に至っては今にも殴りかかってきそうで、一触即発な雰囲気に危機感が募り始めた。

「あ、あの亜陽君。私達そろそろ戻ろう」

とりあえず、ここは強制的に会話を終了させるしかないと判断した私は、亜陽君の服を軽く引っ張って催促してみる。

結局お手洗いには行けなかったけど、今はここから一刻も早く離れたくて、その気持ちを目で訴えた。

「そうだね。美月がなかなか帰って来ないから皆心配してたよ」

すると、亜陽君は何事もなかったように優しく微笑みかけてくれて、ようやくいつもの彼に戻り、私は密かに安堵の息を漏らす。

「それじゃあ、八神君また……」

そして、彼にも一応別れの挨拶はしておこうと振り向いた矢先。

突然八神君の腕が伸びてきて、手首を掴まれた瞬間だった。

思いっきり引き寄せられたと同時に、右頬に触れた少し湿った柔らかい感触。

一体何が起こったのか状況が直ぐに理解出来ず、目を大きく見開くと、そこには不敵に笑った八神君の顔が視界いっぱいに広がった。

「また学校でな、美月」

それから、あろうことか。
頬キスだけに留まらず、まさかの名前呼ばわりをされてしまい、その上、まるで恋人に語りかけるような甘い声で囁かれるとは。
これまで、苗字すら呼ばれなかったのに。

亜陽君に対して挑発しているとしか思えない彼の振る舞いに、思考回路が停止し、そのまま体の動きも止まってしまった。

そんな固まる私には構わず、八神君は掴んでいた手を離すと、何事も無かったように私達の横を通り過ぎて、足早にこの場を去っていった。