あの、これをください」

 今日は1番安いファスナーを裁断用のテーブルに置いた。

「申し訳ありません。直接レジへ」

「あの」

「はい」

「一ノ瀬利香さんは?」

「すみません。席を外しております」

「でしたら、その、一ノ瀬さんにこれを渡していただけないでしょうか」

 タカギミノリは白い封筒を差し出した。

 今まで武者に貢がせた金が入っているほど封筒は厚くない。

 謙虚さとしつこさを兼ね備えたタカギミノリはいったい何を考えているんだろうか、と利香は不審げな目を向けた。

「すみません。お願いします」

 タカギミノリかもしれない人は、そそくさとその場を立ち去り、思い出したようにそばにあった棚から1番安いミシン糸を手にしてレジへ向かった。
 

 昼休み、屋上のベンチに座って利香はタカギミノリかもしれない人から渡された封筒を開いた。

 便箋にびっしり書かれた文字は細く、丁寧に書かれていた。

 とりあえず手紙の最後を確認した。

『高木美乃梨』と書かれてあった。

 やっぱり彼女に武者が金を貢いでいたのだ。

 お金のない武者に毎月金を振り込ませ、コンビニで大量の食材を買わせていたのだ。

 利香は手紙を強く掴んで、ぐっと腹に力を込めて読んだ。

『 一ノ瀬利香様

 突然のお手紙お許しください。私は高木美乃梨と申します。小学1年の息子がいるシングルマザーです。
 武者浩司様とは5年前知り合いました。
 息子がまだ2歳になったばかりのころです。
 あの日は雪が降っていました。とても視界の悪い吹雪の夜でした。武者さんは配達が終わりトラックで会社に帰るところでした。
 何の障害物もない広い通りでした。
 信号は青。武者さんは雪のせいもあり制限速度よりかなりスピードを落として慎重に運転していました。あの道は銀杏並木で秋には美しい道でしたが冬枯れの、しかも吹雪の夜、美しさを通り越して恐ろしいほどの光景でした。一本の、他に比べてかなり巨大なイチョウの木がありました。武者さんがそこを通過した時、ひとりの男が飛び出してきました。
 武者さんは慌ててブレーキをかけましたが雪でスリップしてしまい、飛び出してきた男を引きずって数メールも進んでしまいました。
 男は即死でした。その男は私の夫でした。』

 利香は呼吸ができなくなるくらいだった。

 苦しくて胸が押しつぶされそうだった。

 手紙はまだ続いていた。

 利香は挫けそうになるのを堪えて続きを読んだ。

『武者さんは罪には問われませんでした。夫が自ら飛び出したのですから当然です。あの晩、私たち夫婦は別れ話をしていました。夫がそれを悲観して、自分勝手な行動に出たのです。何の関係もない武者さんの心を傷つけ、多大なご迷惑をおかけしました。私はあまり身体が丈夫ではなかったし、夫は生命保険には入っていませんでした。よく知りませんが自殺だからそもそも入っていてももらえなかったのだと思います。武者さんの方が被害者なのに、毎月毎月お金を振り込んでくれるようになりました。人の人生を奪い、暖かい生活を凍らせてしまったと言って武者さんは泣きながら謝りました。そんなこと、あるはずないのに。そして私は息子のためと思って武者さんの好意に甘えてきました。半年前、武者さんが私と息子のためにアパートを借りてくれました。ワンルームだと狭いからと。大家さんもとても良い人だから安心だと言って。でもそれは断りました。お金だってもういらないと言ったのですが、彼はやめませんでした』

 利香は手紙を読みながら歩き出していた。

 非常階段を降りながら続きを読み、大沢課長とぶつかった。

「おい、歩き手紙は危険だぞ」

 手紙しか見ていない利香に大沢課長の声はもちろん聞こえない。

「おい、まだその靴か。つまづいて転ぶぞ。買ってやろうか?」

 その声は虚しく非常階段を流れるばかりだった。

 
『最近知ったのですが、武者さんは一ノ瀬さんと同居していると聞きました。彼が話してくれました。彼女の好きなタイプは自分とは真逆だから、自分さえしっかり気持ちを抑えていれば共同生活はうまくいくと。でもこのところ彼の様子がおかしくなってきました。女性の気持ちについて、私に色々聞いてくるようになったのです。変だなと思いました。そして昨日、彼がスマホを取り出した時、チラリと見てしまいました。待ち受け画面に、可愛い花嫁さんの写真がありました。一ノ瀬さん、どうして名乗ってくれなかったのですか?その理由はなんとなくわかります。私のことを武者さんの何かだと誤解したんですね。
 長々と書いてしまいました。
 私の書きたかったことはこれで全てです。
      さようなら
         高木美乃梨』