「……行けない」

「えっ、いまなんて?」



蚊の鳴くような声で言ったら、私の言葉をかき消すかのように強い口調で聞き返された。
それでも、一度口にした言葉は無しにしたくない。



「教室でみちる達が待ってるからパンを買いに行けない。……ごめんね」



今にも泣きそうなくらいの震えた声でそう伝えると、握りしめていた500円玉を杏に押し付けて教室方面へ走り出した。

言えた……。
心の中で詰まっていた気持ちが。
もしかしたらこれが関係悪化の引き金になってしまうかもしれないけど、ほんの少しだけモヤが薄くなったような気がした。


杏は結菜の背中を見たまま500円玉をギュッと握って睨みつけていると、日向は杏の耳に顔を近づかせて言った。



「だってさ。早川はああ言ってる事だし、自分のパンくらい自分の足で買いに行けば?」

「……っっ!!」



日向は一役終えると、軽い足取りでUターンして行った。
その場に取り残された杏は、苛立ちが隠せずに眉間にしわを寄せる。

どうして阿久津が間に入って来るのよ。
しかも、結菜が言い返してくるなんて。
今までは「わかった」と言って買いに行ってたクセに。
ムカつく……。


日向の足が結菜に追いつくと、隣から言った。



「ちゃんと言えるじゃん。自分の口で『買いに行けない』ってさ」

「……だって、日向が気持ちを(あお)るから」


「俺は何も言ってないけど?」

「遠くから目で訴えてた」


「知らんて」

「もう、バカバカ! 日向のせいでまた杏に無視されたらどうするのよ」



小六から中二までずっと杏に無視されてた。
それまでは親友のように仲良くしてたのに……。
問題が起きたあの日から私たち2人の間に境界線が引かれた。
それから腫れ物に触るような想いで接してきたし、再び会話に繋がったあの日がどれだけ幸せに感じたかなんて日向にわかるわけがない。

だが、彼は思い詰めている私とは対照的にあっけらかんとしている。



「別にいいじゃん。無視されたって」

「へっ?!」


「あいつだけに執着してても仕方ないよ。友達というのはお互いに認め合った存在である事がベストだし、無理に付き合う必要なんてないと思うけど?」



確かに彼の言う通り。
杏だけに執着する必要はない。
でも、辛い想いをさせてしまった事に違いないから今日まで引け目を感じていた。

日向はスッと目の前を通り過ぎてガヤガヤとざわついている教室に入って行こうとすると、結菜は引き止めるように言った。



「あっ……りがとう」



日向は結菜の言葉を受け取ると、ニッと笑って教室へ入って行った。

まさか私があいつにお礼を言うなんて思いもしなかった。
あいつが余計な事をしなければ、杏から怒りを買う事にはならなかったけど……。

でも、その一方で感謝していた。
もし、あいつが杏の足を引き止めなければ、今はこんなに肩の力が抜けていないから。


日向は少し気分がスッキリしたので、机の上に置きっ放しにしていた鏑木のシャープペンを持って本人の席へ向かった。
すると、鏑木は少し怯えた目を向ける。



「シャープペン、芯が折れちゃったからもう使わない」

「えっ、そんなはずは……。中に予備の二本が入ってるよ?」


「それも全部折れた(正しくは全部折ってやった)」

「えっ……、全部??(普通に使ってても折れる訳がないのに)」


「あぁ、一つ残らずな。ちなみに俺の心は折れた芯の本数以上に傷ついてるからな。それだけは覚えとけよ」



日向はムッスリとしながら席へ戻って行くが、鏑木は先程の悪口が本人に聞こえていた事を確信した。