会長室の応接スペースで向き合った〈Sコスメティックス〉の販売促進部と広報部の部長さん――どちらも三十代くらいの女性だった――が、「ぜひ絢乃会長に、春から売り出す新作ルージュのイメージキャラクターを務めてほしい」と言ってきたのだ。

「そりゃあ……、わたしもおたくの商品の愛用者ですけど。コスメはもちろん、スキンケアやヘアケア、ボディケア商品まで。でもCM出演なんて……、わたし素人なのに」

「弊社の商品をご愛用して下さってるんですね、会長! 感謝します。……実は、これまでイメージキャラクターを務めて下さっていたモデルの女性が、スキャンダルで降板してしまいまして。後任に誰を起用しようかと相談していた時に、TVの報道番組でお見かけした会長の清楚な感じがイメージにピッタリはまっていたので、こうして出演交渉に参った次第でございまして」

「……はぁ」

 揉み手せんばかりに愛想笑いを振りまく彼女たちに、わたしはタジタジになっていた。こういう時の対処法を知っていそうな貢に頼りたかったけれど、彼は給湯室へお茶を淹れに行っていてその場にいなかった。

「ちなみに、このルージュの新しいキャッチコピーがですね、『キスしたくなる春色ルージュ』でして、男優さんとの共演になります。キスシーンが見どころになってまして――」

「き……っ、キスシーン!?」

 貢が戻ってきたタイミングでわたしは思わず声が上ずってしまい、緑茶の入った湯呑みが三つ載せられたトレーを抱えた彼に「どうかされました?」と首を傾げられた。

「あの……、何か問題でも?」

「……ごめんなさい。わたし、申し訳ありませんけど今回のお話はお断りします。正直迷ってはいたんですけど、キスシーンがあるっていうのはちょっと……」

 わたしには貢という想い人がいるのに、ファーストキスを好きでもない(かと言ってキライとも言い切れない)男性に奪われるのはイヤだった。それも、このCMのシリーズに出演している俳優さんはたとえ演技でも本当にキスをすることで有名な人だったのだ。

「そうですか……。分かりました。残念ですが、会長がそこまでおっしゃるのでしたら、我々も別の女性にあたるしかありませんね。では、せっかく淹れてきて下さったので、我々はこのお茶を頂いたら失礼致します。お忙しい中お時間を()いて頂いてありがとうございました」

「そうですよね。こんなに美味しそうなお茶、飲まないともったいないですもんね」

 彼女たちはちょっと残念そうに肩をすくめた後、「いただきます」と言って温かい緑茶をすすり始めた。
 わたしも心の中でもう一度「ホントにごめんなさい」とお詫びしてから、お茶をすすって「あつっ!」と顔をしかめた。実はわたし、猫舌だったのだ。