「ルアルディ! ずっと俺から逃げ回って、滅茶苦茶にしてくれたな!」

 まるでフレイヤを待ち構えていたかのように、アベラルドの怒声が聞こえてきた。

 フレイヤの肩がびくりと揺れる。心の奥底で眠っていた恐怖心が目を覚まし、フレイヤの思考を遮ろうとする。

『うわあ、デカい声。わざわざ怒鳴る必要ある?』

 オルフェンが呆れているような声で呟くが、フレイヤの耳に届かなかった。

 怖い。逃げたい。

 フレイヤの心の中がざわざわと騒めく。
 怯える感情に流されそうになり、指先が微かに震え始めた。

 ――でも、もう逃げたくない。

 空いている方の手を握りしめて――俯いてしまわないよう自分に言い聞かせて声のした方を向く。
 ゴテゴテと飾り立てた装いのアベラルドと、彼の妻であるベネデッタが揃ってやって来た。

 彼らの後ろにはセニーゼ家の派手な馬車が停まっている。彼らも到着したところらしい。

「お久しぶりですね、カルディナーレさん。――ところで、私がカルディナーレさんから逃げ回るとは、いったいどういうことですか?」

 努めて落ち着いた声で、ゆっくりと言葉を口にして問う。
 視線が揺るがないよう、目に力を込めてアベラルドを見た。

「――っ」

 アベラルドは陸に上げられた魚のように、はくはくと口を開けたり閉じたりした。
 
 フレイヤの顔を見た途端に溜まっていた鬱憤が爆ぜて、いつものように怒鳴りつけて憂さ晴らししようとした。
 
 まさか言い返されるとは思わなかった。以前は声を荒げてしかりつけると、俯いて怯えて震えていたというのに。
 
「お、俺がもう一度雇ってやろうとしたのに、王都を出たり別の工房に行ったりして、わざと避けていたではないか!」
「王都を出たのは、カルディナーレさんに解雇された後、どの工房にも雇ってもらえなかったので実家に帰っただけです。その後、コルティノーヴィス卿が雇ってくださったので王都に戻ってきました。ただそれだけのことです」
「あ、あれはお前が俺を差し置いて上顧客の仕事を請け負ったからっ!」

 声を荒げていたアベラルドだが、ふと周囲から向けられる冷たい視線に気づいた。

 競技会(コンテスト)の様子を見に来た貴族たちがいつの間にか集まっており、顔を顰めて自分を見ているのだ。

「いきなり怒鳴りつけるなんてガサツだわ」
「店で話した時は紳士的な方だと思っていけど、客にはいい顔をして従業員に対しては横暴な人なのね。性格が悪いわ」
「言いがかりをつけてルアルディ殿をクビにしたと噂を聞いていたが、本当だったのだな」
 
 ヒソヒソと囁かれる会話の断片がアベラルドの耳に届く。
 自分の評判がガタリと落ちたことに気づき、タラタラと冷や汗をかいた。
 
 自分がフレイヤ・ルアルディを何癖つけて解雇したという話を貴族らはまだ覚えている。
 それなのにここで一方的に怒鳴りつけていると、彼らはフレイヤを不憫に思い、アベラルドへの嫌悪を募らせるだろう。

 アベラルドは内心悪態をついた。
 
 たしかに八つ当たりでフレイヤをクビにしたが、しかしそれがなんだというのだ。
 自分の工房で働かせてやっている従業員なのだから、なにをしようが自由ではないか。
 
 しかし世間はそうではない。このような状況で、これ以上フレイヤに怒鳴りつけても自分の立場が悪くなるだけだ。

 ――どうにかして、フレイヤ・ルアルディの心証を悪くできないだろうか。
 
 アベラルドの辞書に反省はない。
 自分が悪者だと後ろ指を差されるのであれば、別の悪者を仕立てて紛らわせばいいと思っているのだ。
 
 そこに都合の良い閃きがアベラルドに舞い降りてきた。ニヤリと企み顔になると、フレイヤを鼻で笑った。
 
「雇ってもらえただと? たった一度、王妃殿下に香りを気に入ってもらっただけで大した成果のないお前の実力を買う者なんているものか」

 周囲にいる貴族たちが耳を澄ませているなか、アベラルドは朗々と言葉を続けた。
 
「出資してもらうために貴族を誑かして調香師にしてもらったのか。お前がそう言う奴だったとは思わなかったよ。人は見かけによらないものだな」

 貴族は醜聞を好むが、醜聞の対象となった人物には嫌悪を抱く。
 ことに貴族の権力を利用しようと擦り寄る平民を憎悪し、決して許そうとしない。
 
 だからアベラルドはフレイヤがシルヴェリオを誘惑して支援させていると思わせて、評判を下げることにした。
 
 それが真実かどうかなど知ったことではない。ただフレイヤを貶められたらそれでいいのだ。
 
 しかしアベラルドは一つ、大切なことを忘れていた。
 
「――その言葉、つまり私がルアルディ殿に誑かされたということか。コルティノーヴィス伯爵家を侮辱するとはいい度胸だな」

 シルヴェリオの冷え切った声を聞いたアベラルドは、ハッと目を見開く。
 
 気付いた時にはもう遅かった。鋭い光を宿したシルヴェリオの目がアベラルドを射抜いており、あまりの気迫に本能が死を予感して震え上がった。
 
 ついフレイヤに気を取られてしまっており、周りが見えていなかったのだ。
 彼女をエスコートしている人物が誰なのか確認していたら、浅慮な発言はしなかっただろう。

「いえ、これは、その……」

 アベラルドは慌てて言い訳を考えるがなにもでてこない。
 額に汗をかいて固まっている様子は、まるで蛇に睨まれた蛙のようだ。

 これ以上続けると不利になるばかりである。アベラルドの後ろで控えていたベネデッタが、見ていられないとばかりに腕を引いた。
 
「あなた、もう行きましょう」
「そ、そうだな。もうすぐで競技会(コンテスト)が始まるから、会場の中に入ろう」
 
 苛立ちに顔を歪ませてフレイヤを睨むが、フレイヤの表情はぴくりとも動かなかった。
 
 以前のようにおどおどと怯えるだろうと思っていたのに、当てがはずれてなにもかもが面白くなかった。

「フン! 調子に乗っていられるのも今のうちだからな!」

 苛立つあまり、捨て台詞を吐いて立ち去った。

『はあ、五百年ぶりにあんな醜い人間を見たよ。嫌な奴だね』

 オルフェンはアベラルドの背を睨む。
 
「フレイさん、大丈夫か?」

 シルヴェリオは気遣わし気な声でフレイヤに問う。
 フレイヤは困り顔で首を縦に振った。
 
「ありがとうございます。少し震えましたが、以前とは違って、ちゃんと立ち向かえました」
「そうか……」

 一度言葉を止めると、眉間に皺を寄せる。

「ずっとあのような態度だったとは、許しがたいな」
 
 地を這うような低い声で、怨嗟を吐いた。

「あ、私たちも行きましょう。そろそろ時間ですね」

 シルヴェリオからただならぬ空気を感じ取ったフレイヤは、話題を変えて気を逸らす。
 ――そうして一歩、前に進んだ。