ロードンから王都に戻ってから一週間後が立ち、いよいよ競技会(コンテスト)の日を迎えた。
 フレイヤとシルヴェリオとオルフェンは、会場である王城へ向かうための馬車の中にいる。
 
「フレイさん、もしかして馬車に酔ったのか?」
 
 シルヴェリオはぐったりとしているフレイヤに声をかけた。

「いえ、大丈夫です。朝一番から色々なことがあったので……少し放心していました」
『まだ陽が昇っていない時間に家を出たから眠いよね~』
 
 ついさきほどまで、フレイヤは三時間ほどかけてコルティノーヴィス伯爵家の王都の屋敷でメイドたちに体の隅々を磨かれ、化粧を施されていた。

 ヴェーラからの指示で、王族の前に出るに相応しい身だしなみになるよう、当日はコルティノーヴィス伯爵家で身支度することになっていたのだ。
 そのためフレイヤは早朝に起きるとともに彼女を迎えに来たコルティノーヴィス伯爵家の使用人たちによって屋敷に連れて行かれたのだ。

 実はシルヴェリオから前泊する提案を出されたが、貴族の屋敷に泊るなんて畏れ多いため速やかに且つ丁重にお断りした。

 断った直後、一瞬だけシルヴェリオが表情を曇らせたような気がするが、気のせいだろうと思う。
 
「貴族の女性は毎日あれほど丹念に身支度をしているなんて……大変ですね……」
 
 自分がその立場になってしまったら、長い身支度の時間で疲れて何もできなくなってしまいそうだ。
 改めて、貴族の世界は恐ろしいと思う。

 しかし長時間にわたる身支度のおかげで、今のフレイヤは馬車の外にいる通行人たちの目を奪うほど美しい。
 
 コルティノーヴィス伯爵家の使用人が施してくれた化粧のおかげでいつもより顔色がよく、肌には内側から輝くような艶がある。
 目元や口元も化粧により整えられ、強い意思を持つ女性らしいキリリとした表情に仕上げられている。
 
 波打つ榛色の髪は頭の後ろで美しく結い上げられ、繊細な意匠があしらわれた銀細工の髪留めがつけられている。

 コルティノーヴィス香水工房の制服を身にまとい、支度を終えたフレイヤがシルヴェリオの目の前に現れた時、シルヴェリオは彼女に見惚れてしまいすぐには声をかけられなかった。
 
「姉上の張り切りようが凄まじかっただろう。大会前に余計な気を遣わせてしまってすまなかった」
「いえ、いい勉強になりました。それに……会場でカルディナーレさんに会うことが憂鬱だったのですが、皆さんのおかげで少し気を紛らわせることができました」
「そうならいいが……」
 
 本当に、その憂鬱は紛れたのだろうか。

 ネストレがカルディナーレ香水工房の現状を伝えようとその名を出した時、フレイヤの表情をは明らかに強張っていた。
 あれから二週間と少ししか経っていないのに、元上司への恐怖心が薄れているとは思えない。

『カルディナーレって誰?』

 窓の外の景色を眺めていたオルフェンが振り返り、フレイヤに問う。
 
「私が前にいた工房の工房長だよ」
『ああ、シルフが半人半馬族(ケンタウロス)の頼みで嫌がらせするきっかけになった、例の人間か。復讐するなら協力するよ?』
「い、いえ! 復讐するつもりはないのでけっこうです!」
 
 無邪気な声で気軽に恐ろしいことを言う。
 フレイヤは慌てて断った。

 オルフェンもまたシルフと同じくらい、とんでもない方法で復讐するに違いない。
 
『なんで? 嫌なことをしてきた人間なんでしょ? 復讐しないと気が済まないでしょ?』
「たしかに嫌な人ですが、私も同じような人間になりたくないから復讐しないんです。それに復讐したからといって悲しい思い出は消えないですし、むしろ心の中に残ってしまうような気がするので、敢えてするつもりはありません」
『じゃあ、やられっぱなしでいるつもり?』
「いいえ、やられっぱなしでいるつもりもありません。また同じようなことをされたら――今度は堂々と立ち向かいます」

 拳を握り、決意を露にするフレイヤはしゃんと背筋を伸ばしている。
 若草色の目は強い光を宿しており、気弱な様子はない。
 
 二人の会話を聞いていたシルヴェリオは、ふっと声を零して笑った。

「――変わったな。パルミロの店で泣いていた時とは大違いだ」
「あ、あの時は見苦しい姿を見せてしまいすみませんでした……」
「いや……それほど追い詰められていたのだろう。気にするな」

 シルヴェリオはコホンと小さく咳払いすると、言葉を続けた。
 
「君はもう、カルディナーレ香水工房の調香師のフレイヤ・ルアルディではない。うちの工房の調香師兼副工房長で、王族二人に香水を献上したという大きな功績を持っている。カルディナーレ香水工房の工房長や他のどの工房の工房長も持ち得ない実力が確かにあることを、覚えていてくれ。何を言われても、胸を張るといい」
「シルヴェリオ様……」
 
 思いがけない励ましの言葉に、フレイヤは心がじんと温かくなるのを感じた。

「私、シルヴェリオ様のもとで働けて本当に良かったです。シルヴェリオ様は私たち従業員が働きやすいよう常に気にかけてくださって……おかげでのびのびと働けます」
「そうか……」

 シルヴェリオはそっと口元を片手で覆う。

「そう思ってくれているのなら、良かった」

 やや照れくさそうに、そう返したのだった。
 
     ***

 馬車が王城に辿り着き、シルヴェリオのエスコートで馬車から降りたその時。

「ルアルディ! ずっと俺から逃げ回って、滅茶苦茶にしてくれたな!」

 まるでフレイヤを待ち構えていたかのように、アベラルドの怒声が聞こえてきた。