フレイヤたちを乗せた馬車は二日かけてコルティノーヴィス伯爵領の領都のロードンに辿り着いた。
 
 ちょうど昼時の街は、食事のため仕事場から外に出てきた人々で賑わっている。
 そこにフレイヤたちを乗せたコルティノーヴィス伯爵家の馬車が通ると、街の人たちは道を空けて馬車の通り道を作った。

「シルヴェリオ様、おかえりなさいませ!」
「おや、ルアルディさんところのフレイヤちゃんがいるね」
「フレイヤちゃんがシルヴェリオ様の事業を手伝っているんだよ。前に王都から来た商人さんが言っていたけど、第二王子殿下にフレイヤちゃんが作った香水を献上したらしいよ」

 王都の見知った街の人たちの視線が一斉に向けられるものだから、フレイヤは固い笑みを浮かべて手を振り返す。
 
 火の死霊竜(ファイアードレイク)に祈りを捧げた後に王都で歓迎を受けた際もそうだが、このように注目を集める状況に慣れていない。
 
 オルフェンは物珍しそうに窓の外の人だかりを眺める。
 
『わあ、人間がいっぱい。みんなフレイヤの知り合いなの?』
「全員ではないけれど、ほぼほの知り合いかな」
 
 知り合いにこうして集まって迎えられると面映ゆくも感じる。
 
 フレイヤが内心悲鳴を上げていたその時、集まっている人垣の中に姉のテミスの夫――チェルソを見つけた。
 買い出しで外に出ていたのか一人でいる。いつもは一緒にいるテミスの姿がない。
 
「チェルソお義兄ちゃん……?」
 
 フレイヤはどこか戸惑いの含む声で呟きを零した。
 
 ともすると街の人たちが上げる歓声に溶け込んでしまいそうな小さな声。
 初めての場所の景色に気を取られていたオルフェンは隣にいるというのに全く聞こえていなかったが、シルヴェリオは確かにその声を聞き――彼女の動揺を感じ取った。

 深い青色の目が動き、差し向かいの席に座るフレイヤを映す。
 窓の外を見るフレイヤの横顔は、どこか悲劇的な様相を呈している。
 
 フレイヤの視線を辿り、窓の外――チェルソへと視線を移す。

 チェルソ・ルアルディは平民の家に生まれた三男で、愛する女性の願いを叶えるためにルアルディ家に婿入りした元傭兵。
 淡い茶色の髪と目でとりわけ目立つ色彩ではないが鍛え上げられた体躯を持つ逞しい顔立ちの男だ。

 フレイヤを調香師にするため勧誘した際に彼と顔を合わせた時は、人の良さそうな者だといった印象だった。
 その後フレイヤを雇用するに当たり念のため彼女の身元を調べていた際も、チェルソについて悪い噂はなかった。
 
 フレイヤとの関係も良好のようだと報告されている。
 だというのに、目の前のフレイヤはなぜ表情を曇らせているのだろうか。

 シルヴェリオの視線が再びフレイヤに戻る。
 馬車がチェルソの前を通り過ぎて見えなくなっても、彼女はまだ彼のことを考えているように見える。

 シルヴェリオは胸の中が微かに騒めくのを感じた。
 
     ***

 馬車は大通りを抜けて小高い丘を登り、コルティノーヴィス伯爵家の領主邸の玄関前で停まる。 

 ほどなくして馬車の扉が開くと、目の前にコルティノーヴィス伯爵家の使用人たちで作られた花道が現れる。
 
「おかえりなさいませ」

 使用人たちが一斉に頭を下げて礼をとる様子は圧巻で、フレイヤは愕然とその様子を見守った。

「フレイさん、手を」 

 そう言い、先に馬車から降りたシルヴェリオが手を差し伸べる。
 フレイヤは戸惑いつつ片手を差し出したが、大勢の人に見守られながらエスコートされることに慣れていないため、ぎくしゃくとした所作で馬車を降りた。

 その後オルフェンが馬車から降りると、彼の人外めいた美貌をちらと見てしまった使用人の一人が溜息を零す声が聞こえたのだった。
 
 領主邸の中に入ったフレイヤたちは昼食をとるために食堂へ向かった。
 
「あの、平民の私がこのお屋敷の食堂でシルヴェリオ様と一緒に食事をしてもいいのですか? 私はシルヴェリオ様に雇用されたただの従業員なのですし、街に出て食事をとって戻ってきたほうがいいかと――」
「構わない。フレイさんは俺にとっても姉上にとっても大切な客人だからもてなして当然だ」

 そうは言われても、貴族の屋敷の中で食事をとるなんて畏れ多い。
 食堂に向かう足取りは重く、表情にもありありとその躊躇いが出ている。

 するとオルフェンがフレイヤに話しかけた。
 
『ねえ、フレイヤ。どうして嫌そうなの?』
「嫌ではなくて、畏れ多いの。だって平民と貴族は普通、一緒に食事をしないから……」
『でもこの前レストランでは一緒にご飯食べていたじゃない?』
「それはそうなんだけど……」
 
 二人の会話を聞いていたシルヴェリオは振り返ると、自分の後ろを歩くフレイヤを見遣る。
 フレイヤは俯きがちでどことなく元気がなく、そんな彼女に犬の耳と尾をだらりと下がっているような幻覚が見えた。
 
 シルヴェリオは「ふむ」と独り言ちる。
 
「……本日の昼食はフレイさんのために季節のデザートを用意するよう言いつけているのだが」
「デザート……?」 

 フレイヤはガバリと顔を上げる。
 若草色の目に星屑を散らしたような輝きが広がった。

「桃をふんだんに使ったケーキを作ると聞いている。最近は初夏らしい熱い気温になってきたから、フレイさんのためにさっぱりとしたものを用意したいと屋敷の料理人が張り切っているそうだ」
「もっ、桃のケーキ……! 桃と言えばこの時期ですものね。爽やかな甘さに瑞々しい果肉の食感があって毎年この季節の楽しみなんです!」
「それでは、せっかく料理人が用意してくれるのだから食べないといけないな」
「はいっ! ありがたくいただきます!」

 菓子に釣られたフレイヤが、先ほどとは打って変わって元気よく返事をする。
 シルヴェリオの目には、フレイヤについている犬の尾の幻覚がぶんぶんと元気よく振っているように見えた。
 
 あっさりと釣られてしまったフレイヤの姿に、シルヴェリオは思わず笑い声を零した。
 
「――ふっ」
 
 シルヴェリオはスッと片手で口元を覆うが、いつもの仏頂面を取り繕えなかった。
 そんな彼の姿を、周囲にいる使用人たちが驚きを隠せない様子で見守る。

「シルヴェリオ様がまた笑っているわ」
「短期間で二回も笑っているシルヴェリオ様を見られるなんて……亡くなった奥様にお伝えしなければいけないわね」

 シルヴェリオの笑い声を聞いたフレイヤは、ハッと我に返った。
 ついうっかり昼食をご馳走になると宣言してしまったことを思い出すと、途端に顔が真っ赤になる。
 
「じゃあ、フレイさん。ぜひこれから一緒に昼食をとってもらおう」 
「ち、昼食のご招待に感謝申し上げます」

 消え入りそうな声で返事をするフレイヤに、シルヴェリオはまた笑う。
  
 落ち込む姿を見るよりずっといい。
 そう、心から思うのだった。