フレイヤは、遠くでガラスが割れたような音を聞いた。ちょうど、小屋の中にある椅子に座って、オルフェンが淹れてくれたお茶を飲んでいる時のことだった。
 
「もしかして、隣の部屋の窓が割れたんでしょうか?」
『ううん。これはね、結界を壊された音だよ』
「えっ?」
 
 結界が壊されたというのに、オルフェンは平然としている。まるで、にわか雨でも降り始めたねとでも言わんばかりの様子だ。
 その対比に戸惑うフレイヤが茫然と聞き返したその時、先ほどよりも大きな音を立てて結界が崩れる音がした。あまりにも大きな音で、フレイヤは思わず両手で耳を塞いだ。空気を震わせるような音に身が竦む。
 
『あ~あ、面倒な奴が来ちゃったなぁ』
 
 オルフェンは大儀そうに椅子から立ち上がると、ゆっくりと足を動かして小屋の外に出る。
 
 慌ててついて行ったフレイヤが目にしたのは、奇妙な景色だった。
 空には大きな亀裂ができている。亀裂の先に見えるのは、フレイヤがここに来るまでに通った森の木々だ。

 その亀裂を辿って地面まで視線を移すと、シルヴェリオたちを見つけた。
 シルヴェリオもレンゾもフラウラも、怪我はなさそうで安心した。そして彼らの近くに、一人の少女の姿を見つける。

「こんな森の奥に女の子がいるなんて……なにかあったのかな?」
『あれは人間じゃないよ。風の精霊のシルフだ。ああ見えてフレイヤより遥かに年上だよ』
「ええっ?! 精霊?!」 

 フレイヤは大きく目を見開いてシルフを見つめる。
 精霊はなかなか人前に出てこない、もはや伝説上の生き物だとばかり思っていたのだ。その精霊をこの目で見ていることが、未だに信じられない。

『あいつ、お節介な性格で有名なんだよね。面倒だから絡まれたくない』
 
 そう言い、オルフェンは顔を顰める。
 シルフもまたオルフェンを睨んでいる。両手を自身の腰に添えて、今にもお説教が始まりそうな気配がある。
  
『オルフェン、私がここに来た理由はわかるでしょう? そこにいるフレイヤって子を帰してあげなさい』
『なんだよ、いつもは通り過ぎるくせに……フレイヤの首飾りを辿ってここに来たんだね?』 
『辿っていないわ。偶然よ。その首飾りに込められているハルモニアの魔力を感じ取ったから来たの。あの子が首飾りをあげるほど大切な子が閉じ込められているとわかったら、絶対に悲しむわ』
『怒り狂うの間違いでしょ? 半人半馬族(ケンタウロス)は野蛮で凶暴な種族じゃないか』
『ハルモニアは違うわ! 優しくて紳士的なのよ!』

 シルフはよほどハルモニアを気に入っているらしく、オルフェンの言葉に眦を吊り上げる。
 風の精霊である彼女が声を荒げると、その怒りの感情が魔力に溶けて風を創り出し、吹き荒れて周囲の木々を揺らす。

「ふ、吹き飛ばされる!」

 フレイヤは両足に体重をかけて踏ん張り、飛ばされないようにした。風が強いせいで目を開けていられない。
 しかし急に風が止み、フレイヤはゆっくりと瞼を持ち上げた。いつの間にか、彼女の目の前に淡い光を纏う光の盾のようなものが現れていた。

「フレイさん、怪我は?」

 次いで、シルヴェリオの声がする。振り返ると、いつになく狼狽したシルヴェリオがいた。
 
「シルヴェリオ様! もしかして、この結界はシルヴェリオ様が?」
「ああ、短時間で複数の結界を作らなければならなかったから粗末なものだが、ある程度はあの風を防げる」

 振り返るシルヴェリオに釣られて視線を動かすと、レンゾとフラウラの前にも似たような結界があった。
 
「シルフ、その風を止めてくれないか。このままではフレイさんが吹き飛ばされるぞ」
『うっ……わかったわよ』

 シルフは気まずそうに眉尻を下げた。意図せずフレイヤを巻き込んでしまったことに後ろめたさを感じたらしい。
 
『とにかく、フレイヤは連れて帰るからね!』
「あ、あの……まだオルフェンから魔法を教えてもらっていないので、しばらくここにいようと思います。さすがに一年はいられないのですが……」
『魔法?』

 シルフがきょとんと首を傾げる。
 フレイヤはシルフに、フラウラが契約していた人間が魔法を使えなくなったことで契約が途切れてしまったことや、そんなフラウラがオルフェンから魔法を教えてもらおうとしていることを話した。そして、オルフェンがフレイヤに提示した条件のことも。
 
『ふ~ん、それなら私が教えてあげるわ。オルフェンが知っている魔法とは少し違うかもしれないけれど』
「もしかして、知っているんですか?!」
『当たり前よ。精霊は妖精たちよりうんと長生きだし、あらゆる魔法を使いこなせるんだから!』

 オルフェンとは違い、シルフはフラウラに魔法を教えることに乗り気だ。ニコニコと上機嫌に微笑みを浮かべ、フレイヤの手を取る。

『だから早くこんなところから出て行きましょう?』
『……待って』
 
 オルフェンの手が、フレイヤのブラウスの袖あたりをくいと躊躇いがちに引っ張る。見ると、オルフェンは拗ねた子どものように唇を尖らせているではないか。

『僕が教える』
「私はまだ条件を満たしていないのに、いいのですか?」
『……うん、香水を作ってくれた礼をしたいから』

 だからさ、とオルフェンはフレイヤの表情を窺いながら言葉を続ける。
 
『少しの間だけフレイヤの家に泊っていい? ここにいるのがダメなら、僕がフレイヤについて行くよ』
「ええっ、私の家ですか?!」
『うん。ダメ?』

 薄荷色の目を潤ませ、幼気な雰囲気を醸し出した状態で見つめられると断りづらい。
 相手は自分より強い生き物だというのに、フレイヤの良心が保護しよう働きかけてくるのだ。
 
 悶々と悩むフレイヤの姿に、オルフェンはあとひと押しだと内心ほくそ笑む。しかしシルヴェリオが二人の間に割って入った。
 
「ダメだ。お前にとっての少しはフレイさんにとっての一生と同じに違いないからな」
『部外者は黙ってよ。僕はフレイヤに話しているんだよ?』
「俺はフレイさんの上司だ。部外者ではない」
『上司って、仕事で関わるだけの人でしょ? どう見たって部外者じゃん。ちなみに僕はフレイヤと繋がりがあるから部外者じゃないよ?』
「――っ」
 
 すぐには言い返せなかったシルヴェリオが、無言のままオルフェンを睨む。しかしオルフェンはシルヴェリオには気にも留めず、それどころか無視して、さっさとフラウラに魔法を教え始めた。
 フレイヤもオルフェンに連れて行かれて一緒に魔法の講義を聞いており、興味深そうに頷いている。そこにはシルフも参加しており、こちらはオルフェンに突っ込みを入れては睨まれている。
 
「なんとか目的は達成できましたね」

 レンゾが胸を撫でおろすと、シルヴェリオが眉間に皺を寄せる。二人はフレイヤたちから少し離れたところで、遠巻きに見ていた。

「結果として、厄介なことになったが……あいつ、本当にフレイさんの家に住もうとしているのか?」
「繋がりができた妖精と住むのはそう珍しいことではないですし、いいのでは? オルフェンはフレイヤさんに懐いているようなので、害になるようなことはなさそうですし」

 レンゾの言う通り、妖精と契約している人間の中には妖精と生活する者もいる。パルミロとフラウラだってそうだ。
 そのためか、シルフもオルフェンがフレイヤの家に住むことに関しては特に口を挟まなかった。
 
「……しかし……いや、なんでもない」

 シルヴェリオは言いかけた言葉を止めると、深い青色の目にフレイヤを映した。
 
「オルフェンは、雄の妖精ではないか」 

 レンゾには聞こえない声で、そう呟いた。
 
 結局オルフェンは、フレイヤの家にしばらく居候することとなった。
 オルフェンによる魔法の授業が終わると、シルフはフレイヤたちに別れを告げる。彼女は今から、ハルモニアに会いに行くらしい。
 
「ハルモニアによろしくお伝えください」 
『ええ、きっと喜ぶわ。ところでオルフェン、くれぐれもフレイヤに迷惑をかけないようにね?』
『うるさいなぁ。子ども扱いしないでくれる?』
 
 オルフェンは煙たそうに顔を顰めた。
 シルフはくすくすと笑うと、風を巻き起こして宙に浮かぶ。そうして、夕暮れ時の優しい色合いの空へと飛び立った。

「俺たちも帰ろう。森は夜になると魔獣が活発になるから危険だ」
「はい」
 
 フレイヤは慌てて祖父カリオの形見のトランクを取りにオルフェンの小屋へ行く。それから一行は森を出て、乗ってきた馬車に再び乗った。
 
 王都への帰路は行とは違い、オルフェンも乗ることになった。そのため体が小さいフラウラが、フレイヤの膝の上に乗っている。フレイヤはモフモフを堪能できて大喜びだ。

 ちなみにフレイヤの隣はオルフェンがちゃっかりと占領している。そうして残ったシルヴェリオとレンゾが並んで座った。
 
『ねえねえ、フレイヤの家は薬草がある?』
「少しならありますよ」
 
 オルフェンは子どものようにはしゃいでおり、絶え間なくフレイヤに話しかけている。その様子を、シルヴェリオは眉根を寄せて睨んでいる。今にもオルフェンを氷漬けにしてしまいそうなほどの鋭い眼差しで。
 
 レンゾはそれに気づいて震えていたが、フレイヤはフラウラのモフモフな背中を撫でるのに忙しく、気づいていなかった。
 
「フラウラ、王都に着いたらすぐにパルミロさんのもとに帰ろうね」
『うん!』

 フラウラはぴんと尻尾を立てると、窓に手をついて外を眺める。そうして、彼女が愛するに想いを馳せた。