あれから私とナジャはずっとあの部屋に留め置かれ続けた。後宮の外へと出られる気配もなければ、あの皇帝キムが私達へ危害を加える気配も感じられない。
 ちなみに侍女曰くこの部屋にいるように指示をしているのは、キムでは無くアイネだそうだ。無駄な諍いは避けたい彼女の性根を考えれば、ここにいた方が安全かもしれない。

 夜。この日も豪勢な夕食が用意された。ビーフシチューに焼き立てのパン。様々な野菜が彩られたリーフサラダに寒天で出来たデザート。ビーフシチューからは湯気が立ち込めており、具材もゴロゴロとたくさん入っている。

「今日も美味しそうね」

 と語るナジャ。彼女の明るい振る舞いが無ければ私の精神は平穏を保ってないだろう。
 夕食はどれも美味しいが、やはり味が少し濃い。
 私が残り僅かになったビーフシチューをスプーンですくって口に運ぼうとした時だった。

「あ」

 ビーフシチューがスプーンから半分ほど零れ、ドレスについてしまった。ドレスにはこげ茶色の染みが一瞬にして血だまりのように広がっていく。

「ナターシャ大丈夫?!」
「私は大丈夫だけど…ど、どうしようこのドレス…」

 ドレスが高いのは見たら一発で分かる。私はすぐさま部屋のドアを叩き、待機していた侍女にトイレへ行くと言って部屋を出た。
 一応後ろからは侍女が付いてきている。これは私の脱走を防ぐ為なのは重々理解できている。
 トイレの洗面台で染みを拭う。するとトイレの個室から1人の女性が出て来た。

「あ…モア?もしかして、あなた…モア?!」
「…!」

 その女性は私、「モア」の母親だった。彼女はターシャと呼ばれていたような…

「無事だったのね、モア…!心配したんだから?!」

 まああれからずっと家には戻ってなかったので、彼女には申し訳なさがあるのは事実である。私はとりあえずは謝るが、彼女からはなぜここにいるのか?という質問を受ける。

 それもそうだ。彼女からして私はモアであり、ナターシャという名前では無いのだから。

「ナターシャ!」

 ナジャと侍女がこちらへ走ってくる。ナターシャと読んだナジャに母親は何を言ってるんだ?というような目線を向けた。
 これは、どこまで話せば良いのだろうか。

「モア?なんでナターシャと呼ばれているの?」
「…実は、私は前世ではナターシャという名前だったの。信じて貰えないかもしれないけれど。思い出したの」