そんなある時、大津皇子は何と石川朗女と山の中で会う約束を取り付けていた。
 この時代、男性が女性の元に通うのが通例なのだが、彼らは意外にも外で落ち合うことにしたようである。

 こうして大津皇子は、意気揚々と彼女との約束の待ち合わせ場所までやってくる。愛しの女性と会えるとあって、彼は今まさに天にも昇る心地だろう。

 だが外の寒いなかで、彼女がくるのを今か今かと待ってはいるものの、何故か一向に相手がやってくる気配がない。

(ど、どうして、彼女はやってこないんだ……)

 それでも彼は、石川朗女がくるのをひたすら待ち続けた。こんな寒い山の中で立っていると、体の体温もどんどんと奪われていく。

 そして中々やってこない石川朗女に対して、彼は寒さと彼女に会いたい気持ちを募らせ、思わずその場で一つ歌を詠んだ。

「あしひきの 山のしづくに (いも)待つと 我れ立ち()れぬ 山のしづくに」巻第2-107

(山のしずくで、あなたを待っていると、立ち濡れてしまいましたよ、山のしずくに)

 山の木々のしずくが体にかかり、どうやら彼の体は濡れてしまったようだ。

 そして後ほど、彼のそんな歌を聞いた石川朗女は、返しの歌を詠む。どうやらこの時、彼女はその場に会いに行けなくなってしまったようだ。

()を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを」
巻第2-108

(私を待ってそんなに濡れてしまったあなた。私がその山の雫になれたらよいのに)

 大津皇子もそんな彼女の返し歌に、さぞ喜んだことだろう。これならいくらでも彼女のために待っていられる。


 またこれとは別に、ある日彼の身にとんでもない出来事が起こってしまう。津守通(つもりのとおる)という1人の陰陽師の男が、彼の占術によって、何と2人の密通が気づかれてしまったのだ。

 本来であればこれは大問題なのだが、何故かそのことを聞いた大津皇子本人は、全く動じることをしなかった。さらに彼はその出来事に対し、まるで開き直ったかの如く、1つの歌を詠んだ。

大船(おほふね)津守(つもり)(うら)()らむとは まさしに知りて 我がふたり()し」
巻第2-109

(大船の津守が占いに現わすだろうことは知りつつも、それでも二人で寝たのだ)

 どうやら大津皇子は、あえて関係を隠すことはせず、石川朗女との恋を貫こうとしたようだである。

 これは彼自身の自信の現れなのか、それともそれだけ恋に飲めりやすい性格なのだろうか……
 今も昔も、人々の恋は何と情熱的なことだろう。