リーゼがノクターンへの恋心を意識したのは、彼女が十歳になった頃だった。

 その頃はまだ故郷に住んでおり、とても退屈な時期だった。当時、地方警備隊に配属されたてのノクターンは仕事で忙しく、以前より一緒にいられる時間が短くなった。
 だから必然的に、町にいる同年代の子どもたちと遊ぶようになったのだ。

(あの時、町で一番大人びている男の子に告白された時、私は初めてノクターンへの気持ちを知った)

 それ以来どうしてもノクターンを意識してしまい、困り果てて友人に相談した。

『いま告白しても本気だと思ってもらえないよ。だってリーゼちゃんのことを子どもだと思っているもん』

 とても傷つく忠告だったが、それもそうだと納得した。だから成人してからノクターンに告白しようと決意したのだった。
 
     ***

 やがてブライアンとハンナが帰宅し、久しぶりに一家揃っての夕食となった。
 ワルツはようやくノクターンから鶏肉の塊をちょうだいし、上機嫌に歌いながら食べている。

「今日はノクターンのためにいい酒を買ってきたぞ」
「自分が飲みたいだけだろ?」

 軽口を叩き合うノクターンとブライアンを見て、リーゼとハンナは楽しそうに笑う。
 かつて故郷で過ごしていた頃と変わらない光景だ。

(毎日こうだったらいいのに……)

 快活で頼もしい父親と、明るくて優しい母親。そして、意地悪で不愛想で気まぐれだけど、リーゼになにかあったらすぐに駆けつけてくれるノクターン。
 みんなで囲むこの食卓こそが、リーゼにとって宝物で、守りたい大切な世界だ。

「それにしても、五日間も泊まり込みでの仕事なんて大変だったねぇ」
「まぁな。長引きそうな仕事だったから早めに片づけておいたんだ」

 おかげで所帯持ちの部下に毎日泣き言を言われた、とノクターンが愚痴を零す。
 ノクターンの部下たちの中には、彼よりも年上の軍人もいる。しかし話を聞いている限りでは部下たちと上手くやっているらしい。

「新婚の奴には悪いことをしてしまった」
「……」
「リーゼ、今日はやけに静かだな」
「ノクターンがうるさいだけじゃない?」

 同僚たちとの話を聞くのは楽しい。しかし時おり、彼の口から結婚やら妻といった単語が出てくる度に、とてつもなく大きな不安に駆られるのだ。

(いつかノクターンが結婚すると言ったら……どうしよう?)

 そのような考えが頭の中を過るだけで、胸の奥がツキンと痛くなる。

(嫌だな。そうなってしまう前に、せめて気持ちだけでも伝えたい)

 不安が次々に押し寄せてくるせいで、美味しく作れたはずの鶏の丸焼き(ローストチキン)が、ひどく味気なく思えた。

     ***

 その日の夜、リーゼはなかなか寝つけなかった。

(不安なことって、一つ考えるといくつも連なってでてくるから本当に厄介)

 すっかり目が冴えてしまい、仕方がなく部屋を出る。温かい牛乳でも飲んでみることにした。
 冷たい牛乳を鍋に注ぎ、ハチミツを匙一杯分だけ垂らす。

(このままだったら、なにも変わらないよね)

 待つだけに甘んじていては、いつかこの世界が崩れる。
 街でノクターンの噂を聞く度に、そのような危うさを覚えるようになった。

(行動しないと、なにも起こらない。ただ流されて、そして何もかも失ってしまう)

 かつてこの国を統治していた王族がそうだった。
 
 彼らは魔法の消滅を食い止めず、魔法使いたちの減少を止めず――。
 それは王族が女神の不興を買うような禁忌を犯したしたからではないかと、国民たちは不信感を募らせた。

 そして反乱軍により滅ぼされ、一族全員が殺されたらしい。

(昔はすぐに好きと言えたのに)

 しかしそれはただの好意であって、恋愛感情からなる言葉ではなかった。だから毎日ノクターンに伝えられていたのだ。
 
(いざ告白しようと思うと、怖くなってしまう。だけどほんの少し、勇気を持てたら……)

 あるいは誰かが背中を押してくれたら――……。

「あ~あ。魔法使いがお姫様にしてくれたらいいのにな」

 幼い頃に読んだ絵本を思い出す。意地悪な継母にいじめられていた少女が魔法使いの魔法によってお姫様のようになり、王子様に見初められるおとぎ話だ。
 
 なにをとってもノクターンには釣り合わない自分を変えてくれる誰かの助けを必要とするほど、切羽詰まっているのだ。
 
「魔法使いはこの土地から消えたし、王族は滅んだ。現実を見ろ」
「……え?」
 
 思いもよらない突っ込みに驚き、床から拳一つ分くらい飛び上がった。
 振り返ると、ノクターンが台所の壁に寄りかかり、意地悪な笑みを浮かべてリーゼを見つめている。

(ええっ?! いつの間に来ていたの?)

 全く物音がしなかったから気づかなかった。それとも、悩みごとに集中していたから聞き逃しただけなのだろうか。
 いずれにせよリーゼは驚き、手に持っているマグカップを落としそうになった。
 
「酔っているくせに正論で返さないでよ」
「眠いだけだ。頭は冴えている」
「それなら寝言か」
「誰かさんが物音を立てるから起きてしまったんだよ」
「へぇ~。冷血のスタイナー大佐は案外繊細なんですね~」
「……おい。誰からその話を聞いた?」

 犯人はノクターンの部隊にいる新入りの部下だ。リーゼと年が近いということもあり、街中で出会うと気さくに話しかけてくれる。

(貴重な情報源を失うわけにはいかないわ)

 だから黙秘権を行使して犯人を守った。

「はぁ……。それで、今日はどうしたんだ? 食が進んでいなかったが、体調が悪いのか?」
「むしろ元気だよ。学校でお菓子を食べ過ぎただけ」
「それだけではないだろ。……まさか、深夜も起きて勉強しているのか?」
「生憎だけど、睡眠時間は削らない主義なの」
「ふ~ん?」

 ノクターンはのそのそとリーゼに近づくと、彼女の手から空っぽのマグカップを取り上げる。

「洗っておくから歯を磨いてこい。虫歯になるぞ」
「子ども扱いしないでよ。もう来年には成人するんだよ?」
「はいはい」
(絶対にわかっていない!)
 
 聞き流すような相槌を背に台所を出て、洗面所に向かう。
 
(……うん?)

 いつも使っている洗面所に違和感を覚えたが、それが具体的になになのかはわからない。

(なんだろう……誰かに頭の中を探られているような、変な感覚がする)

 そのまま歯磨きを終えて、台所に戻った。
 洗い物を終えたノクターンが窓辺に立ち、ワルツと一緒に夜空を見ている。

 ノクターンはリーゼの気配にすぐに気づき、振り返った。
 星明かりのもとで、緑色の瞳が宝石のように美しく輝く。

「もう寝られそうか?」
「たぶん」
「……こっちにおいで」

 その声が妙に頭の中を支配する。気付けばリーゼの足は勝手に動き、ノクターンに近寄った。
 すると、ほろ苦いシダーウッドの香水の匂いもまた近づく。

(故郷の森の香りと似ている)
 
 ぼんやりとした頭でそう考える。
 見上げた先にあるノクターンの緑色の瞳が、一瞬だけ、仄かに光を宿したように見えた。

(まさか……ね。そんな魔法のようなことが起こるわけない)

 慌てて目を逸らすと、ノクターンの大きな掌がリーゼの頭を撫でる。彼の手が触れる度に、むず痒さと嬉しさで胸の中が満たされる。

 もっと撫でていてほしいとさえ思ったが、大好きな掌はそっと離れてしまった。

「早く寝ろよ。……そうだ、今夜は新月だから鏡を見るな。まっすぐ寝台に行け」
「どうして?」
「鏡に映った首なしの騎士に連れて行かれるからな」
「そんな迷信は信じているの?」

 その問いかけに、ノクターンは珍しくなにも言わず、肩を竦めるだけだった。