その夜、ノクターンが夕食までに帰ってきた。
久しぶりに一家揃っての団らんとなり、ブライアンとハンナが大喜びで話しかけている。
「軍医が早く帰宅しろとうるさかったんだ」
「あらまあ、優秀な軍医さんだこと」
ノクターンの愚痴に、ハンナがころころと笑う。彼女もまた、働き詰めのノクターンを心配していたのだ。
(軍医って、たぶんミラー医務官のことよね)
どうやら宣言通りに動いてくれたらしい。
久しぶりにノクターンと一緒に夕食を食べられるのは嬉しいけれど、昼間に見た二人のやり取りを思い出すと、鉛のように重い感情が胸につっかえる。
手元にあるスープの器を眺めるフリをして俯いていると、隣にいるノクターンから視線を感じた。
(どうしたんだろう……?)
気になって顔を向けると、目を逸らされてしまう。さりとて自分から声をかけるのは、どことなく憚られる。
再び俯くと、またもやノクターンの視線を感じ取ったが、顔を上げるとまた逸らされる。
そのやり取りが何度か続いたが、結局のところ、ノクターンは夕食中に一度も話しかけてくれなかった。
***
夕食後、リーゼは湯あみを終えると自室に籠った。国家試験に向けて勉強するためだ。
今年の冬には試験があるため、一日として欠かさず勉強の時間を設けている。
国軍の財務部の経理は狭き門だ。それにもかかわらず毎年多数の志願者が応募するため、リーゼは採用を勝ち取るために必死で勉強している。
しかし今日は、なかなか勉強に集中できないようだ。小さく唸ると、読んでいた本を机の上に置き、その上に突っ伏してしまった。
(ノクターンは私が軍に入ること、反対しているのかぁ……)
昼間の話を思い出すと、またもや泣きたくなる。ノクターンと同じ職場で働くために努力して勉強を続けてきただけに、反対されると、己を拒絶されたようで悲しくなるのだ。
(それでもやっぱり、諦められない。もっとノクターンのそばにいたいもん!)
両手で頬をぱちんと叩き、気合を入れる。
気を取り直して勉強を再開しようとすると、誰かが部屋の外で扉を叩いた。返事をすると、なんとノクターンが部屋の中に入ってきた。
「どうしたの?」
声が裏返りそうになりながらも、平常を装って用件を問う。
「あの後、まっすぐ帰ったか?」
「う、うん」
「……」
緑色の瞳が探るようにリーゼを見つめた。
それでも本当のことを話すのは気が引ける。エディと出会い、彼の会社に立ち寄ったのだと話せば、自ずと泣いていたことを自白しなければならないからだ。
「それよりも、なにか用? ワルツはここにいないよ?」
咄嗟に話しを逸らすと、ノクターンは苦虫を嚙み潰したような顔になる。しばし思案した後、トラウザーズのポケットから薄紅色の可愛らしい包みを取り出した。それには艶やかな赤色のサテンリボンが結ばれており、丁寧に包装されている。
「ん」
ぶっきらぼうな声で促し、リーゼにそれを受け取らせる。
(これって……プレゼント……だよね?)
嬉しさ半分、戸惑い半分で、両手の上に乗せている包みとノクターンを交互に見た。
「今日は誕生日じゃないよ?」
「知ってる」
「じゃ、じゃあ……なんで?」
「差し入れの礼だ」
「~~っ!」
思いも寄らぬお返しに歓喜し、椅子から勢いよく立ち上がった。
昼間は迷惑そうにしていたから、余計なことをしてしまったと落ち込んでいたのだ。だからこそ、お礼の品を買って来てくれたことが嬉しくてしかたがない。
「クッキーおいしかった?」
「ああ」
おまけに嬉しい感想を聞かせてもらえ、その場でぴょんと飛び跳ねたくなる。実際に飛び跳ねると幼子のようだから、ぐっと堪えた。
それでもリーゼの顔は今にも飛び跳ねそうなほど輝いており、その喜びようはノクターンにしっかりと伝わっていた。
「開けていい?」
「リーゼに買ってきた物なんだから、俺の許可は必要ないだろ?」
贈り主から言質をとったリーゼは、丁寧に包みを解いた。
包みの中には天鵞絨張りの小さな箱があり、開けるとブレスレットが姿を見せる。
(綺麗……)
銀色のチェーンのブレスレットで、真ん中に緑色の小さな宝石がついている。
宝石の色は、ノクターンの瞳と同じ深い緑色。
その美しさに目を奪われた。
「ノクターンが選んだの?」
「俺が買ってきたんだから、俺が選んだに決まっているだろ」
その不愛想な返事に、舞い上がってしまいそうになる。
ノクターンが自分のために選んで買ってくれたことが、嬉しくてならない。
リーゼはブレスレットを掌の上に乗せ、ノクターンに差し出した。
「つけて」
「ああ? 自分でできるだろ?」
そう愚痴を零しつつも、ノクターンはリーゼの手からブレスレットを摘まみ上げると、彼女の手首に細いチェーンをまわす。
チェーンの冷たさを感じた後、ノクターンの掌の熱が近づく。時おり彼の指先が触れるものだから、心がそわそわとして落ち着かない。
(なんやかんやで、私に甘いなぁ)
ブレスレットを注視するノクターンの瞳をそっと盗み見て、ひっそりと喜びを噛み締めた。
「ありがと」
「……ああ」
リーゼはブレスレットをつけてもらった手首を持ち上げる。その動きに合わせ、チェーンがしゃらんと揺れた。
「肌身離さずつけておけ。外すなよ」
「どうして?」
「その石がリーゼを守ってくれるらしい」
その石とは、彼の瞳の色と同じ宝石のことだろう。
現実主義のノクターンらしからぬ理由に、リーゼは声を上げて笑った。
「魔法は信じないのに、おまじないは信じるの?」
「――っ、いらないなら返せ」
リーゼは差し出された手を躱し、素早く距離をとる。そしてもう一度腕を持ち上げ、ノクターンに見せつけるようにブレスレットに頬を寄せた。
「へへっ。嬉しい」
「……そうか」
ふにゃりと笑うリーゼを、ノクターンは目を眇めて眩しそうに見つめた。
「一生大切にする」
これは、ノクターンがリーゼのために買ってくれた物。
超がつくほど現実主義なのに、リーゼの安全を願ってお守りになるブレスレットを選んでくれた。
その事実がリーゼの心をくすぐり、突き動かす。
リーゼはノクターンの背に両手をまわし、ぎゅっと抱きしめた。
「好き」
「――っ!」
突然の抱擁に驚いたのだろう。ノクターンの体がにわかに硬直したが、すぐに力が抜けた。
ノクターンは手を持ち上げ、リーゼの頭に触れようとしたが――触れる直前に動きを止め、ゆっくりと下げた。
「誰これ構わずに抱きつくなよ。男には絶対にするな」
「お父さんは?」
「ブライアンもダメだ」
「ノクターンならいいの?」
「……っ」
言葉に詰まるノクターンの胸元に、こつんと額を当てて答えを待つ。
「ああ」
少し拗ねているような声が耳元に落ちる。たった一言の返事だが、それで十分だった。
(……大好き)
言葉では言い表せられないほどの感情を、どう伝えればいいのだろう。そう考えたリーゼは、抱きしめる力を少しだけ強めて密着した後、逃げるように布団の中に潜った。
頬に熱が宿り、熱くてしかたがない。
「おやすみ!」
布団越しに声をかけると、ノクターンはしばし間を置いたのち、「寝坊するなよ」と言ってから角灯の明かりを消した。
視界が一気に暗くなる。それから微かな足音がした後、扉が閉まる音が聞こえた。
外の様子を窺うために布団の端を軽く持ち上げると、ノクターンの姿はなかった。
「差し入れ、喜んでくれたんだよね?」
布団から顔を出し、手を掲げてみる。ブレスレットについている緑色の石が微かな光を拾ってきらりと輝く。
「ふへへ。嬉しい」
数分前まで抱いていた憂鬱はどこへ行ってしまったのだろうか。今は胸の中を満たすのは喜びばかりで。
「あ~あ、本当に狡いなぁ」
彼の一挙一動がリーゼの心を揺さぶり、いとも簡単に喜びと悲しみを入れ替える。
どれだけ意地悪でも、どれだけ不愛想でも――彼を愛おしく思う気持ちは募る一方だ。
「……返事、いつ聞かせてくれるのかな?」
彼の気持ちを知るのは怖い。でも、早く知りたい。
(ノクターンは私のこと、どう思っているんだろう?)
リーゼは縋るようにブレスレットに頬を寄せ、緑色の宝石に口づけた。
久しぶりに一家揃っての団らんとなり、ブライアンとハンナが大喜びで話しかけている。
「軍医が早く帰宅しろとうるさかったんだ」
「あらまあ、優秀な軍医さんだこと」
ノクターンの愚痴に、ハンナがころころと笑う。彼女もまた、働き詰めのノクターンを心配していたのだ。
(軍医って、たぶんミラー医務官のことよね)
どうやら宣言通りに動いてくれたらしい。
久しぶりにノクターンと一緒に夕食を食べられるのは嬉しいけれど、昼間に見た二人のやり取りを思い出すと、鉛のように重い感情が胸につっかえる。
手元にあるスープの器を眺めるフリをして俯いていると、隣にいるノクターンから視線を感じた。
(どうしたんだろう……?)
気になって顔を向けると、目を逸らされてしまう。さりとて自分から声をかけるのは、どことなく憚られる。
再び俯くと、またもやノクターンの視線を感じ取ったが、顔を上げるとまた逸らされる。
そのやり取りが何度か続いたが、結局のところ、ノクターンは夕食中に一度も話しかけてくれなかった。
***
夕食後、リーゼは湯あみを終えると自室に籠った。国家試験に向けて勉強するためだ。
今年の冬には試験があるため、一日として欠かさず勉強の時間を設けている。
国軍の財務部の経理は狭き門だ。それにもかかわらず毎年多数の志願者が応募するため、リーゼは採用を勝ち取るために必死で勉強している。
しかし今日は、なかなか勉強に集中できないようだ。小さく唸ると、読んでいた本を机の上に置き、その上に突っ伏してしまった。
(ノクターンは私が軍に入ること、反対しているのかぁ……)
昼間の話を思い出すと、またもや泣きたくなる。ノクターンと同じ職場で働くために努力して勉強を続けてきただけに、反対されると、己を拒絶されたようで悲しくなるのだ。
(それでもやっぱり、諦められない。もっとノクターンのそばにいたいもん!)
両手で頬をぱちんと叩き、気合を入れる。
気を取り直して勉強を再開しようとすると、誰かが部屋の外で扉を叩いた。返事をすると、なんとノクターンが部屋の中に入ってきた。
「どうしたの?」
声が裏返りそうになりながらも、平常を装って用件を問う。
「あの後、まっすぐ帰ったか?」
「う、うん」
「……」
緑色の瞳が探るようにリーゼを見つめた。
それでも本当のことを話すのは気が引ける。エディと出会い、彼の会社に立ち寄ったのだと話せば、自ずと泣いていたことを自白しなければならないからだ。
「それよりも、なにか用? ワルツはここにいないよ?」
咄嗟に話しを逸らすと、ノクターンは苦虫を嚙み潰したような顔になる。しばし思案した後、トラウザーズのポケットから薄紅色の可愛らしい包みを取り出した。それには艶やかな赤色のサテンリボンが結ばれており、丁寧に包装されている。
「ん」
ぶっきらぼうな声で促し、リーゼにそれを受け取らせる。
(これって……プレゼント……だよね?)
嬉しさ半分、戸惑い半分で、両手の上に乗せている包みとノクターンを交互に見た。
「今日は誕生日じゃないよ?」
「知ってる」
「じゃ、じゃあ……なんで?」
「差し入れの礼だ」
「~~っ!」
思いも寄らぬお返しに歓喜し、椅子から勢いよく立ち上がった。
昼間は迷惑そうにしていたから、余計なことをしてしまったと落ち込んでいたのだ。だからこそ、お礼の品を買って来てくれたことが嬉しくてしかたがない。
「クッキーおいしかった?」
「ああ」
おまけに嬉しい感想を聞かせてもらえ、その場でぴょんと飛び跳ねたくなる。実際に飛び跳ねると幼子のようだから、ぐっと堪えた。
それでもリーゼの顔は今にも飛び跳ねそうなほど輝いており、その喜びようはノクターンにしっかりと伝わっていた。
「開けていい?」
「リーゼに買ってきた物なんだから、俺の許可は必要ないだろ?」
贈り主から言質をとったリーゼは、丁寧に包みを解いた。
包みの中には天鵞絨張りの小さな箱があり、開けるとブレスレットが姿を見せる。
(綺麗……)
銀色のチェーンのブレスレットで、真ん中に緑色の小さな宝石がついている。
宝石の色は、ノクターンの瞳と同じ深い緑色。
その美しさに目を奪われた。
「ノクターンが選んだの?」
「俺が買ってきたんだから、俺が選んだに決まっているだろ」
その不愛想な返事に、舞い上がってしまいそうになる。
ノクターンが自分のために選んで買ってくれたことが、嬉しくてならない。
リーゼはブレスレットを掌の上に乗せ、ノクターンに差し出した。
「つけて」
「ああ? 自分でできるだろ?」
そう愚痴を零しつつも、ノクターンはリーゼの手からブレスレットを摘まみ上げると、彼女の手首に細いチェーンをまわす。
チェーンの冷たさを感じた後、ノクターンの掌の熱が近づく。時おり彼の指先が触れるものだから、心がそわそわとして落ち着かない。
(なんやかんやで、私に甘いなぁ)
ブレスレットを注視するノクターンの瞳をそっと盗み見て、ひっそりと喜びを噛み締めた。
「ありがと」
「……ああ」
リーゼはブレスレットをつけてもらった手首を持ち上げる。その動きに合わせ、チェーンがしゃらんと揺れた。
「肌身離さずつけておけ。外すなよ」
「どうして?」
「その石がリーゼを守ってくれるらしい」
その石とは、彼の瞳の色と同じ宝石のことだろう。
現実主義のノクターンらしからぬ理由に、リーゼは声を上げて笑った。
「魔法は信じないのに、おまじないは信じるの?」
「――っ、いらないなら返せ」
リーゼは差し出された手を躱し、素早く距離をとる。そしてもう一度腕を持ち上げ、ノクターンに見せつけるようにブレスレットに頬を寄せた。
「へへっ。嬉しい」
「……そうか」
ふにゃりと笑うリーゼを、ノクターンは目を眇めて眩しそうに見つめた。
「一生大切にする」
これは、ノクターンがリーゼのために買ってくれた物。
超がつくほど現実主義なのに、リーゼの安全を願ってお守りになるブレスレットを選んでくれた。
その事実がリーゼの心をくすぐり、突き動かす。
リーゼはノクターンの背に両手をまわし、ぎゅっと抱きしめた。
「好き」
「――っ!」
突然の抱擁に驚いたのだろう。ノクターンの体がにわかに硬直したが、すぐに力が抜けた。
ノクターンは手を持ち上げ、リーゼの頭に触れようとしたが――触れる直前に動きを止め、ゆっくりと下げた。
「誰これ構わずに抱きつくなよ。男には絶対にするな」
「お父さんは?」
「ブライアンもダメだ」
「ノクターンならいいの?」
「……っ」
言葉に詰まるノクターンの胸元に、こつんと額を当てて答えを待つ。
「ああ」
少し拗ねているような声が耳元に落ちる。たった一言の返事だが、それで十分だった。
(……大好き)
言葉では言い表せられないほどの感情を、どう伝えればいいのだろう。そう考えたリーゼは、抱きしめる力を少しだけ強めて密着した後、逃げるように布団の中に潜った。
頬に熱が宿り、熱くてしかたがない。
「おやすみ!」
布団越しに声をかけると、ノクターンはしばし間を置いたのち、「寝坊するなよ」と言ってから角灯の明かりを消した。
視界が一気に暗くなる。それから微かな足音がした後、扉が閉まる音が聞こえた。
外の様子を窺うために布団の端を軽く持ち上げると、ノクターンの姿はなかった。
「差し入れ、喜んでくれたんだよね?」
布団から顔を出し、手を掲げてみる。ブレスレットについている緑色の石が微かな光を拾ってきらりと輝く。
「ふへへ。嬉しい」
数分前まで抱いていた憂鬱はどこへ行ってしまったのだろうか。今は胸の中を満たすのは喜びばかりで。
「あ~あ、本当に狡いなぁ」
彼の一挙一動がリーゼの心を揺さぶり、いとも簡単に喜びと悲しみを入れ替える。
どれだけ意地悪でも、どれだけ不愛想でも――彼を愛おしく思う気持ちは募る一方だ。
「……返事、いつ聞かせてくれるのかな?」
彼の気持ちを知るのは怖い。でも、早く知りたい。
(ノクターンは私のこと、どう思っているんだろう?)
リーゼは縋るようにブレスレットに頬を寄せ、緑色の宝石に口づけた。