涙を流したおかげで、少しずつ心が落ち着いてきた。
 リーゼは鞄からハンカチを取り出し、目元をそっと押さえる。擦ってしまえば余計に腫れるだろう。

(もう目が真っ赤になっているわよね?)

 泣きながら街中を歩くのと同じくらい、泣き腫らしたまま街中を歩くのも気恥ずかしい。
 俯いて歩くと誤魔化せるだろうか、と悩んでいたその時。

「うわっ! 人がいた!」
 
 目の前に突然、一人の青年が飛び込んできた。間一髪で衝突を免れたが、突然の事態に驚いて硬直してしまう。

「お嬢さん、少し助けてくれない?」
「え、ええと?」
「追われているから隠してほしいんだ!」

 青年は不安そうに大通りの方を見遣る。きっと追手がその近くにいるのだろう。事態は一刻を争うようだ。

「と、とりあえずこうしましょう!」

 リーゼは手に持っていた鞄を高く掲げ、青年の頭を隠した。お粗末な隠し方だが、いまはこの方法しか思い浮かばない。

「う~ん、想像とは違う方法だが……」
「想像していた方法とは?」
「ここで逢瀬をしている恋人のフリをして抱擁し合うんだ」
「そんな方法では顔を隠せませんよ? 相手はあなたの服装を覚えているかもしれないですから」
「なるほど、ぐうの音も出ないね。残念だなぁ」
 
 青年は苦笑交じりに呟くと、大人しく体を屈めてリーゼの陰に隠れる。
 間一髪だったようで、すぐに足音が聞こえてきた。女性の声も一緒に近づいてくる。かなり苛立っている声だ。

「エディ! どこにいるの?!」

 女性は人を探しているらしい。そこから察するに、恐らくリーゼが隠している人物がそのエディなのだろう。

(あ、目が合った)
 
 目抜き通りを見つめるリーゼと、リーゼたちがいる細道を覗く女性の視線がかち合う。
 女性はリーゼを見るなり眉尻を下げ、同情するような様子を見せるとそのまま通り過ぎていった。この泣き腫らした顔が上手く作用してくれたようだ。

「――もう行ったみたいだね」

 足音が遠ざかると、青年がリーゼの陰から出てきた。

「助けてくれてありがとう。俺はエディ。紡績工場を経営している実業家だ」
 
 エディの金色の髪は緩やかに波がかっており、華やかな印象がある。瞳の色は綺麗な水色で、一見すると童話に描かれた王子様のような見目。おまけにすらりと背が高くしなやかな体躯で、女性に人気がありそうな容姿だ。
 彼の服は質の良い生地で仕立てられており、実業家としてそれなりに成功していると見受けられる。

「その実業家さんが、どうして街中で女性に追いかけられているんですか?」
「人気者は常に追いかけられてしまうものなんだよ。美形だから色んな女の子に惚れられてしまうんだ。会社にまで押しかけて来るから、本当に困っているんだよ」
「あ~。そうなんですね。美形は大変ですね」
「いまの返事、社交辞令な感じで傷ついたんだけど!」

 自己申告とは対照的に、エディの目は生き生きとしている。顎に手を添え、リーゼを観察するようにじっと見つめた。

「君、俺に全然惚れてくれないね?」
「普通、そういう事を人に聞きますか?」
「う~ん、他の女の子たちと反応が違うから、正直驚いたんだよ」
 
 呆れてしまったリーゼは、曖昧な相槌を打つ。この青年は自分の美貌にかなりの自信があるらしい。
 確かに甘い顔立ちをしており、さぞかし人気者だろう。しかしその事とリーゼが惚れるかは話が別だ。

「君のおかげで助かったからさ、何かお礼させてくれないかい?」
「結構です。大したことではないので」

 日頃から硬派なノクターンが身近にいるためか、目の前にいる青年の華やかで軟派な雰囲気がどうも胡散臭くて信用できない。
 関わらない方がいいだろう、と本能が教えてくれる。
 
「つれないこと言わないでよ。借りを作らない主義だから何かさせて」
「そう言われましても、私はただ鞄を持ち上げて立っていただけなので気にしないでください」
 
 そう言い切って立ち去ろうとすると、エディが先回りしてリーゼの行く手を阻む。

「じゃあ、お礼のことはさておき、まずはその目の手当てだけさせてくれない? さっきまで泣いていましたって顔で街を歩くのは辛いでしょ?」
「そんなにひどいですか?」
「一目見てわかるくらい目が真っ赤だからね。瞼は晴れているし……歩いている間、同情の眼差しが集まると思うよ?」
「うっ……」

 ここから家までの道すがら、知り合いにこの顔を見られたくない。ましてや両親に見られてしまえば、心配させてしまうだろう。
 迷いを見せたリーゼに、エディが手を差し出す。
 
「俺の会社が近くにあるから、そこで手当てしよう」
「……お願いします」
「喜んで。ところで、君の名前は?」
「リーゼです」

 渋々とエディの手を取るその様子を、暗がりから見つめる二つの緑色の目があったことに、リーゼは気づいていなかった。
 
     ***

 エディの会社は目抜き通りを挟んで反対側の通りにあった。以外にも華美な外観ではなかったが、重厚感のある濃緑色の看板が印象的な洗練された建物だ。
 
「リーゼちゃん、ネザーフィールド社へようこそ」

 中に入れてもらうと、エディと年の近い見目の男性が鬼気迫る形相でやって来た。あまりの気迫に足が竦む。

「エディ! 女の子を怒らせた次は泣かせたのか?! 三面記事に載せられる前に行動を改めないと、辞表を叩きつけるからな!」
「違うよ~! この子は俺の命の恩人。でもって、泣いていたから手当てしようと思って連れて来たんだよ」
「……本当ですか?」

 男性の問いかけに、リーゼは「本当です」と苦笑しつつ答えた。

「はぁ。うちの社長がご迷惑をおかけしてすみません。応接室にご案内しますね。すぐに手当の準備をします」
「俺がするからいいよ。ジーンは仕事に戻って?」
「下心丸見えのお前を女の子と二人きりにさせられねぇよ。あと、お前が抜けていた間の穴埋めには特別手当つけてもらうからな」
「それも秘書の仕事の範囲内だろ~?」

 エディとジーンは社長と社員というより、年の近い友人のような砕けた間柄のようだ。
 
 煌びやかでこなれたエディとは異なり、ジーンは落ち着きがあり生真面目そうな青年だ。
 亜麻色の髪をきっちりと撫でつけており、服は落ち着きのある色味で統一している。
 
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。私はジーン・オブライトと申します。お気兼ねなくジーンと呼んでくださいませ。この阿呆の秘書をしておりますので、また迷惑をかけられたら私にお申し付けください」
「私はリーゼ・ヘインズです。リーゼと呼んでください。……あの、オブライトということはもしかして……」
「ええ。父は国民議会議長のアルジャーノン・オブライトです」

 淡々と肯定すると、持ってきた布を冷水に浸して絞り、リーゼの目元にそっと当てる。それからリーゼを労わる言葉をかけてくれた。
 ジーンは父親の職を鼻にかけない性分のようで、その質実な印象もまた、エディとは正反対だ。
 
「失礼ですが、リーゼさんはどの新聞を読んでいますか? 政治に詳しいようですね」
「ええと、家族が三社分読んでいますので、私も同じものを。国軍の財務部に入るのが夢なので、毎日欠かさず目を通しています」
「新聞の名前は?」
「『日刊監視者の目』と『経済速報新聞』と『日刊アヴェルステッド新聞』です」
「驚きました。この国の情報を全て網羅しているといっても過言ではないでしょう。うちの社長に見習ってほしいものですよ」
 
 ストレーシス国では階級により読んでいる新聞が異なり、掲載している内容も違う。
 各階級が主に贔屓してる新聞は、上流階級だと『日刊監視者の目』、中流階級だと『経済速報新聞』、労働階級だと『日刊国民新聞』だ。

 労働階級向けの新聞は娯楽要素が強いといった傾向があるため、すぐに政治家の名前を思い浮かべたリーゼに驚いたようだ。
 
「ねえ、どうしてジーンとは楽しそうに話しているの? 俺には素っ気ないのに!」
「下心丸出しの奴に警戒するのは当たり前のことだ。リーゼさんの半径一メートル以内に近づくな」

 そう言い、手当てを代ろうと差し伸ばしたエディの手をバシッと叩いた。
 エディは唇を尖らせて抗議するが、ジーンに睨まれると大人しくなる。二人の関係は社長と秘書というより、教師と生徒のようだ。
 
「ちぇっ。リーゼちゃん、お礼の内容が決まったらまた会いに来てね?」

 エディは上質な紙にさらりと何かを書きつけ、リーゼに手渡した。
 受け取った紙には、ご丁寧にも名前と会社名とここの住所が書かれている。

「考えておきます」
「それ、絶対に考えてくれない返事だ!」
「フラれたんだよ。潔く諦めて仕事に戻れ、この阿呆!」

 その後、エディを社長室に押し込んだジーンに見送ってもらい、リーゼは今度こそ帰路についたのだった。