「ほぉ……告白してから全く顔を合わせなくなったのね……」

 リーゼの悩みを聞いたミラー医務官は激怒した。
 
 この健気で天使のような少女を避けるなど言語道断。ましてや告白の返事をせずに逃亡しているとは軍人の風上にもおけない。戦場で全ての武器を放棄して敵前逃亡しているようなものだ。
 
 あまりの怒りに、次に会った時には一泡吹かせてやろうとさえ思った。

「あの腰抜けめ……情けないったらありゃしないわ」
「え?」
「……コホン。なんでもないわ。リーゼちゃん、急に会えなくなるなんてとても不安だったでしょうね。でも、心配いらないわ」
 
 ミラー医務官は言葉を切るとティーカップを急角度に傾け、紅茶を一気に飲み干す。

「きっと今夜は早く帰ってくるはずよ――いや、そうさせるわ。軍医として、長時間労働を放っておけないもの」

 そう言い、眼鏡を片手でくいっと持ち上げる。レンズの奥にある灰色の瞳の中で、青い炎の幻覚が揺らいでいる。
 果たして本当に、軍医の立場から強制帰宅させようとしているのか不明だ。そのことはさておきとして、並々ならぬ熱意が窺える。

「今日はなにがなんでも早く退勤させるわ。だから待っていてね!」

 一人で盛り上がり始めたミラー医務官が拳を握るのとほぼ同時に、医務室の扉を叩く音がした。ミラー医務官が淡々と返事をすると、一人の若い軍人が入ってくる。
 
「あれーっ?! こんなところに可愛い子がいる!」

 若い軍人は入ってくるなり破顔し、リーゼをしげしげと見つめた。不躾な視線を目の当たりにしたミラー医務官が、ゴホンと大きく咳払いして牽制する。

「その子に手を出してはダメよ。『六人のスミス二等兵曹事件』の悲劇が繰り返されるわ」
「ま、まさか……この天使がスタイナー大佐の、()()()なんですか?!」

 若い軍人の顔から血の気が引いていく。
 おぞましい事件を思い出したようだ。両腕で自分の身を抱きしめ、震える体を必死で宥めている。

 軍の中で起こった事件のようで、リーゼからすると、なんのことやらちっともわからない。
 
「『六人のスミス二等兵曹事件』って、なにがあったんですか?」
「あれはね、悲劇だったのよ。狂竜の逆鱗に触れた者のせいで、罪のない五人の軍人が流れ弾に当たってしまったわ」
「その事件とノクターンにどのような関係が?」
「ごめんなさい。軍事機密だからこれ以上は教えられないの」
 
 ミラー医務官も若い軍人も、神妙な顔つきになっている。きっとおぞましい事件だったのだろう。
 詳しい内容を知りたいところだが、軍事機密と言われてしまえばこれ以上聞けない。
 
「そういえば、噂を聞きましたよ!」

 若い軍人が表情をパッと明るくする。一方でミラー医務官はさして興味がなさそうな様子だ。
 
「何の噂?」
「ルウェリン中将がミラー医務官とスタイナー大佐を見合いさせようと張り切っているそうですよ」
(お、お見合い?!)

 リーゼは叫びそうになったのを堪えた。

 軍には男所帯の印象があるから、すっかり失念していた。
 割合が少ないものの女性も働いているから、見合いや恋愛の機会があるに違いない。
 
 いままでノクターンがリーゼたちに話さなかっただけで、実はそのような話がたくさんあったのではないだろうか。

(ノクターンがミラー医務官と、お見合い……)

 見た感じだと、二人は同世代で年齢が近そうだ。おまけにどちらも軍で働いているから、話が合いそうな気がする。
 なにより、ミラー医務官は美人で大人の余裕がある。超がつくほど現実主義なノクターンとは、いい関係を築けそうだ。
 
(私にはないものを、全部持っている……)

 リーゼは密かに落ち込んだ。スカートの上で拳を握りしめ、込み上げてくる感情を押し止める。
 
「――はぁ。ベラベラと喋らないで、さっさと仕事に戻りなさい」

 ミラー医務官は片手で追い払う仕草をする。

「待ってくださいよ~。鍛錬中に怪我をしたので治療してください」
「わかったわ。黙って治療を受けて早く帰ってちょうだい。リーゼちゃんとのお茶を邪魔されて不機嫌なの」
「職務怠惰だ~」

 文句を零しつつも、ミラー医務官の治療は手際がいい。若い軍人から怪我をした当時の状況や痛みについて質問をした後、あっという間に処置してしまった。

 医療録を書いている間もリーゼを気にかけてくれた。若い軍人がリーゼをじっと見ていると、睨んで牽制し、医務室から追い出したのだった。

「ふぅ。これでようやく話の続きができるわね」

 先ほどとは打って変わって、嬉しそうな笑みを向けてくれる。
 本人の宣言通り、本当に軍人の男性を相手するのに辟易しているのだろう。

「さてさて、どこまで話していたのかしら――あら、また患者だわ」

 扉を叩く音を聞いたミラー医務官が、今度はいささか不機嫌気味に返事をした。
 キイと蝶番が音を立て、扉が開く。シダーウッドの香りが空気に交じり込んできた。

(この香りは……ノクターン?)

 顔を上げると、予想通りの人物が室内に入ってきてリーゼを見つめている。走ってきたのだろうか、微かに息が上がっている。
 
「リーゼ、どうしてここにいる?」
「差し入れを、持ってきたの……」

 リーゼがバスケットを持ち上げて見せると、ノクターンは両手でそれを受け取った。
 
 ノクターンの位置から座っているリーゼを見ると、ちょうどリーゼが上目遣いしているように見える。
 その表情を見た瞬間、ノクターンの心臓が大きく跳ねた。

「……くっ」
 
 咄嗟に片手で心臓の当たりを押さえると、リーゼの視線から逃れるように顔を背けた。
 ノクターンの頬が微かに赤く染まっているたのだが――顔を背けられているリーゼが、それを知る由もない。

「それなら、衛兵に名前を言って呼び出せばいいじゃないか。どうして施設の中にいる?」
「私が招待しました。だって、スタイナー大佐の信奉者たちが門を塞いでいて、リーゼちゃんが困っていましたもの」

 ミラー医務官が間に入り、ノクターンを睨む。

「ちなみに、医務室にはどのようなご用件で?」
「リーゼの気配がしたから――」
「気配? そんな曖昧なものを感じ取ったからここに来た、と?」

 迫るような勢いで問い詰められている。もはや質問ではなく尋問だ。

(あのノクターンが押されている?!)

 リーゼはいつになく狼狽えているノクターンを見て驚いた。

(なんだか、私と話している時と全然違う……。仲がいい……のかな?)

 自分の知らないノクターン。そして、そんな彼を知っているミラー医務官が、特別な関係にあるように見える。
 胸の奥を針で刺されたような、チクリとした痛みを感じた。
 
(もしミラー医務官のことが好きだったら、どうしよう……?)
 
 ざわざわと、胸の奥に嫌な感情が渦巻く。これが嫉妬なのだろう。そう理解したリーゼは、慌てて別のことを考えた。そうすることで、嫉妬を忘れようと努力したのだった。
 
「いや。リーゼの匂いが――」
「はぁ? リーゼちゃんの匂いを嗅ぎ分けてくるなんて、変態ですか?」
「間違いだ。足音を聞きつけて――」
「リーゼちゃんの足音だけ区別しているなんて怖いのですが」
「い、いや……声だ。声がして、慌ててここに来た」
「……ひとまず、そういうことにしておきます。これ以上尋問したらとんでもない事実を知ってしまいそうで、正直に言うと怖いです」

 ミラー医務官は眉を顰め、あからさまに軽蔑した目でノクターンを見つめる。有無を言わさぬ気迫に、ノクターンはすっかり気圧されてしまった。

 この状況はどうも分が悪い。そう判断したノクターンは、リーゼの腕を掴んで立ち上がらせた。

「行くぞ。途中まで送る」
「え、ちょっと……!」

 腕を引き、一緒にこの医務室から撤退することにした。

「リーゼちゃん、また遊びに来てね!」
「リーゼ、ここにはもう来るな」

 相反する言葉の板挟みになり困惑したリーゼは、曖昧に返事したのだった。

     ***
 
 リーゼとノクターンは裏門から出て、目抜き通りに繋がる細道を歩く。
 二人とも黙々と足を動かしており、気まずい空気が流れている。
 
 やがて目抜き通りの喧騒が聴こえてくると、ノクターンが足を止めた。
 
「もう国軍本部には来るな」
「どうして?」
「リーゼに悪い虫がつく」
「そんなことないよ。ノクターンは心配し過ぎ。それに、もし国家試験に合格したら私もあそこで働くんだよ?」
「……国軍の経理になるのは止めろ。俺はまだあそこで働くのに賛成していない」
「――っ!」

 リーゼは言葉を失った。

 確かにノクターンは、リーゼが国軍の経理になると口にするたびに渋面を作っていた。しかしこれまでに一度も反対をされていなかったものだから、突然の宣告に衝撃を受ける。

「国軍の経理並みに給料が良い職場を探すから、そこで雇ってもらえばいい」
「え……」
 
 愕然とするリーゼをさらに突き放すように、ノクターンの手が離れる。

「まっすぐ家に帰れよ」

 そう言い残し、振り返りもせずに国軍本部に戻ってしまった。

「……っ、どうして……?」

 立ち尽くしてノクターンの背を見送る。じわりと涙が滲み、視界をぼやかした。

(ノクターンに近づきたいのに、離れていくばっかり)

 見合いの話を聞いて悲しかった。両親は知っているのだろうか。いずれにせよ、教えてくれなかったことに疎外感を覚える。

(ミラー医務官とは仲が良さそうだったな……)
 
 いつもと違う姿を自分以外の人間に見せていて、嫉妬した。そんな感情を抱く自分に嫌気がさす。
 
「ノクターンのバカ」
 
 目の奥が熱い。涙がどんどん溢れて止まらず、このまま街中を歩くのは気が引ける。
 しかたがなくその場にしゃがみ込み、涙が止まるのを待った。