そして、紫遥の会社に着いてからがさらに大変だった。


 目立たないように離れたところに車を停めてくださいとお願いしたものの、「湊様に必ず会社の前まで送り届けるように言われていまして」と中村が困った顔で言うものだから、紫遥は渋々オフィスビルの裏側に車を停めてもらうことにした。

 しかし、オフィスビルの裏口は喫煙スポットになっており、出勤する前に一服しようと立ち寄る社員が多い場所だった。紫遥は喫煙者ではなかったので、それを知らずに車を降りてしまい、リムジンから降りるところをバッチリ同じ部署の男性複数名に見られてしまった。




 そうして出勤してから1時間も経つのに、様々な憶測が飛び交い、紫遥は好奇の目に晒されているのであった。

 (集中できない……)

 目の前には今日〆切でまとめなければいけない資料が山積みになっていたが、常に誰かに見られているというプレッシャーから、なかなか仕事が進まない。

 紫遥が朝、リムジンから降りてきたと知った人たちは皆、紫遥が実は社長令嬢か資産家の娘かだと勘違いをした。着ている服はいつも同じようなものだし、ブランドバッグや高価な宝石を身につけているわけでもなかったが、それは周囲の目を欺くフェイクだと、多くの人は考えた。

 誰が言い始めたのか、本当のお金持ちはわざと質素な格好をして庶民に紛れ込む、という説も浮上し、紫遥はいつのまにか、社会勉強をするため「庶民のフリをする社長令嬢」ということになっていた。

 「それにしても、なんで突然リムジンで出勤?」

 「電車通勤の経験は十分に積んだからじゃないの?」

 「何よそれ!電車通勤が経験だなんて。庶民には考えられないわ」

 周囲の人々の妄想はどんどん膨らみ、紫遥ですら自分が何と噂されているのか把握できないほどになっていた。

 多くの人は紫遥を羨望の眼差しで見つめたが、社内で一人、一躍話題の人となった紫遥を、不機嫌そうに見つめる女がいた。