天気もいいし、今日は外でお弁当を食べようと決め、エレベーターで1階に降りると、セキュリティーゲートを抜けた先のロビーで突然誰かに声をかけられた。

「仮屋紫遥さんですか?」

 自分の名前を呼ぶその男に見覚えはなく、思わず顔をしかめる。

 男はダークグレーのジャケットを羽織り、深緑色のネクタイを締めていた。少し長めの髪は整髪料できちんと整えられており、いかにも仕事のできる男という印象を受ける。

 営業マンだろうか。それにしても、なぜ自分に声をかけるのだろうか、と不思議に思いながらも、紫遥は男の質問に答えた。

「そうですけど……どなたでしょうか?」

 そう聞き返すと、男は慣れた手つきで名刺を取り出し、紫遥に手渡した。
 
「私、こういう者です」

 渡された名刺には「柿沼エージェンシー、タレントマネージャー 町田悠平」と記載されていた。
 
「タレント……芸能事務所のマネージャーさん、ですか?」

「そうです。うちのMINATOをご存知ですよね?」

 その名前を聞いた途端、さっと青ざめた紫遥を見て、町田は申し訳なさそうに言った。

「お話があるので、一緒に来ていただいてよろしいでしょうか。ここでは人目がありますので」

 マネージャーが直々に尋ねてくるなんて、まさかあの夜のことだろうか。だって、それ以外何が考えられる?

 紫遥は、背中に氷のようなものが走るのを感じた。
迷惑をかけないように、一夜限りの出来事であると割り切り、湊が起きる前に部屋から出た。もしかすると、あの夜のことが世間に漏れないよう口止めするために、わざわざ職場まで来たのかもしれない。

そんなことをされなくても、紫遥はあの日のことを誰にも言うつもりはなかった。自分だけが知る、大事な思い出として心の片隅にとっておくつもりだった。

しかし、湊からすれば、そんな紫遥の決意など知るはずもない。

(言いふらすかも、って思われたのかな)

湊にそう思われたことが、なぜかとても恥ずかしかった。

紫遥はか細い声で「わかりました」と答えた。