「そうですか……」

 母はどこかで生きていると思っていたが、まさか裕福な家の妻になっているとは思わなかった。心のどこかで母は自分たち二人を育てていけるほどの力がないから、家を出て行ったのだと思っていた。自分たちに申し訳ない気持ちで今もどこかでつつましい生活を送っている。勝手にそんな想像をしていたが、母は娘二人を育てていける環境を手に入れた後も迎えにこなかった。母は意図的に自分たちを見捨てたのだ。

 押し黙ったままの恋人を見て、湊はそっと紫遥の肩を抱いた。

「俺は無理に会う必要はないと思います。けど、紫遥さんが会いたいなら俺もついて行くので」

「ううん、私は今さら母親に会いたいなんて思ってない。けど、多分真夏は本当の母親に会いたいと思うから」

「本当の母親……?」

「昔ね、お母さんに会いたいって泣く真夏に、あの人が帰ってくるのを待つのはやめて、私のことをお母さんだと思いなさい!って言い聞かせてたの。私は本当に真夏の母親代わりにならなきゃいけないと思ってたし、あの人が立派な母親になって家に帰ってくることなんて期待できなかったから。けど、小さい頃からずっと一人だったんだもん。普通はお母さんに会いたくてたまらないよね」

 紫遥はそう言いながら、ズキズキ痛む心臓を隠すようにそっと手で胸元を覆った。

「私、真夏にずっと我慢させちゃったから、あの人が会ってくれるって言ってるなら会わせてあげたいの」

「紫遥さん……」

 聡子の方を向き直り、「母の連絡先を教えてください」と言う紫遥に、聡子は一枚の紙切れを渡した。

「彼女の連絡先よ。会うつもりがあるなら、ここに電話をかけなさい」

 電話番号が書かれた紙を受け取ると、紫遥はさらに憂鬱な気持ちになった。あの日からずっと、真夏の母親代わりとして生きてきた。だが、山口の言う通り、自分が母親になれるはずもない。どれだけ真夏に親身に寄り添い、精一杯尽くしたとしても、お腹を痛めて真夏を産んだ母親の代わりにはなれないのだ。
 だが、そうは言ってもあの人が真夏が幻想を抱いている母親像とはかけ離れているのは確実だ。真夏と母親を会わせたい。けれど、それで真夏が傷つくようなことがあったら、と心配でたまらない。
 
 紫遥は母親の連絡先が書かれた紙をそっとポケットにしまい、久我家を後にした。