「え……?」

「先輩は、男に触れられるのも話しかけられるのも苦手なんですよね?今までそうやって男と距離を置いてきた人が、どうして俺に触れられても平気なんですか?」

「それ、は……」

 湊と美術室で遅くまで話し込んでいたあの頃、紫遥にはまだ男性に対する苦手意識なんてなかった。だから、湊は知るはずがないのだ。

 頼れる両親がいなかった紫遥が、心から信頼していた教師から、今でも続く大きなトラウマを植え付けられたことを。

 山口のことを打ち明けようか。咄嗟にそんな考えが頭に浮かんだ。けど、もし信じてもらえなかったら?拒否できず、ただ受け入れるしかなかった自分が、ふしだらな女だと思われてしまったら?こんな風に思う自分の方がおかしいと思われてしまったら?

 そう思った瞬間、さっきまで熱くなっていた身体が急に体温を下げた。湊の手が押さえ込んでいる腕には、大量の虫が這っているような感覚がして、紫遥はぞっとして息を止める。


 そして次の瞬間、紫遥は湊を思い切り突き飛ばしていた。

 突然のことに驚いた湊は体制を崩し、ソファーの上で尻餅をついた。そして、目の前で肩を上下に揺らし俯く紫遥を、茫然と見る。

「……先輩?」

「ごめん、私もう寝るから」

「え?ちょっと……!」

 驚く湊を置いて、紫遥は2階に駆け上がって行った。

 湊なら平気なはずだった。かつて好きになった人だったら、自分の初めてを捧げた相手であれば、こんなフラッシュバックは起こらないはずだと思っていた。

 だけどついに、起こってしまったのだ。


 部屋に入ると、真夏がスヤスヤと寝息を立てていた。

「真夏、ごめんね……」
 
 はやく自分の記憶の中から山口を葬り去りたい。そうしたら楽になれるのに。

 あの夏の呪縛から、いつになったら私と、そして真夏は解放されるのだろうか。

 紫遥は大きなため息をついて、ベッドにゆっくりと横たわった。