まるで糸が切れた人形のように気を失うメイベル。それだけ、目の前の相手は手強く、どれだけその命を脅かしていたのか。
 そっと傷だらけになったメイベルの頬を撫でて実感した。

 裂かれたドレス。自分でやったのは一つ。動き易さを考えれば、それは自ずと分かる。しかしそれ以外は……。

「今までも命令違反していたが、害がなかったから目を瞑っていた。まさか、自分が優遇されているとでも勘違いしていたのか?」
「私は聖女です。役に立つ者を優遇するのは当たり前のことではありませんか?」

 相変わらず、通じない女だ。

「聖女だからなんだ。罪のない者を傷つけても構わないというのか?」
「人には役割があります。役に立たない者が、いるべきではない場所にいるのは罪です。周りに被害を及ぼします」
「そうだな。今、まさにお前がやっているのが、その証拠だ。巡回をサボり、命令違反をした挙げ句、領主の妻を傷つけた。お前の言う聖女とは何だ? 周りの意見も聞かず、暴走するだけの女のことを言うのか?」
「私はただ、辺境伯様に目を覚ましていただきたかったんです。そこの女より私の方が役に立ちます! 選ばれるべきは私です!」

 選ばれる……。聖女なのにバードランド皇子の婚約者に選ばれなかったシオドーラ。教会から出されて、行き着いた先で見つけたエヴァレット辺境伯の妻という地位。

 その全てをメイベルに立ち塞がれていた。あくまで不可抗力なのだが、シオドーラから見れば関係ない。
 どちらも求められ、選ばれるメイベルと、全てに拒絶されるシオドーラ。

 被害者意識が強くなるのも無理はないが、メイベルがシオドーラに直接、何かしたわけじゃない。たまたまそこにいただけだ。

 自覚していないようだが、完全なる八つ当たりに他ならない。メイベルからしたら、いい迷惑だ。そして俺も。

 しかし、逆の立場なら……そうか。シオドーラの矛先は俺からメイベルへ。何もかも手に入れる者への嫉妬。
 誰もが抱く、その気持ちに聖女もまた黒く染まってしまったのだな。その証拠に……。

「しかし、今のお前に聖女が名乗れるのか?」
「え? も、勿論です。私は聖――……」

 女という言葉を発した瞬間、シオドーラも気づいたのだろう。自身の周りにいる蝶が、何色をしているのか、を。

「どうして?」
「ようやく気づいたか、聖女の象徴だった白い蝶が、今や人を傷つける黒い蝶に成り果てたのを」
「その女のせいです! 私の力が穢れたのは!」

 ここに来てもまだ、己の過ちを認めない。全てをメイベルのせいにするのは、簡単で楽だからだ。

「私のせいじゃない。だって、私は……」
「もう聖女でもない。罪人だ。ガーラナウム城への損害も含めて、その危険人物を取り押さえろ。抵抗するなら容赦するな」
「っ! 辺境伯様!」
「俺は今、お前を殺したいのを我慢しているんだ。だが、今までの功績もあるからな、その恩情として生かしている」

 殺気を放てば、シオドーラは「ヒッ!」と小さな悲鳴を上げる。

「ようやく手に入れたというのに、お前のくだらない嫉妬で失いかけたんだぞ。八つ裂きにしても気がすまない。お前はそれだけのことをしたんだ。どんな罰を受けたいか、牢屋の中で考えておくんだな」

 俺はメイベルを抱き締めたままシオドーラを睨む。部屋の外へ連れて行かれる姿を無事に見届けていると、反対にダリルが中に入ってきた。

「魔術師を連れて来ました。神聖力とは違い、治りは遅いですが、ないよりかはいいと思いまして」
「助かる」
「それから、奥様の容態が回復するまでは全て、私が引き受けますので、ご安心ください」

 さすがは俺が不在の間も、ガーラナウム城を支えてくれているだけのことはある。俺は頷きつつも、要件を話し始めた。

「ブラッドたち騎士団には、帰ったら休暇と報酬を弾んでおいてくれ。それからシオドーラの件だが……」
「ご主人様。そちらは奥様と話し合われた方がよろしいかと。勝手に決めたら怒るのではありませんか?」
「っ! そうだな。俺の仕掛けた罠に、メイベルを巻き込んだ挙げ句、こんな姿になるまで頑張ったんだ。処罰を決めるのは俺じゃない。メイベルの方が、それに相応しい」

 ブレイズ公爵家への連絡も含めて、な。公爵夫人だけでなく、義弟のクリフが影で動く可能性もあるだけに、慎重になるべき事柄だった。
 その二人を思い浮かべた途端、ある言葉が脳裏を過る。

「持つ者と持たざる者の末路。それでも罪は罪だ。そうだろう、ダリル」

 メイベルにあって、シオドーラにないもの。愛して、支えてくれる家族。欲しくて手を伸ばしても、簡単には手に入らないもの。
 俺はその一員になったのに過ぎない。

「はい。それに、持とうが持つまいが、傲慢(ごうまん)になった方が負けなんですよ。多くのものを求めても、相手を尊重する心を忘れてはなりません」
「耳が痛いな」

 ダリルはシオドーラのことだけでなく、メイベルに対しても、俺が多くを求めていることに言及しているのだ。
 メイベルは多く持っていても、それに振り回されているだけで、傲慢に振る舞ったことはない。たとえ、そう見えたとしても。

「とりあえず、奥様を安静な場所へ。客室を整えましたので、私室が直るまではそちらをお使いください」
「分かった。サミー、お前も来てくれ。メイベルの着替えを頼みたい」
「畏まりました」

 サミーもまた、メイベルと同じように怪我をしていた。共に来れば、メイベルと一緒に治療もできよう。
 目が覚めた時、サミーが怪我をしていたら、メイベルはきっと悲しむだろうから。


 ***


 それから一週間。メイベルは眠ったままだった。医者が言うには、普段使わない魔力を使った反動だという。
 しかし、魔術師に魔力を補充したとしても、メイベルの体がビックリするだけで効果は望めない。むしろ、体に悪く作用してしまうと言われてしまった。

 だから今は、ひたすら待つしかない。

「メイベル」

 体の傷は、ほとんどがかすり傷だったため、もう完治している。十三年前に見た、騎士団に交じって訓練している幼いメイベルが脳裏に浮かんだ。

「あの後も欠かさずしていた成果なんだろうな」

 辺境伯領に来てからは、やることが多くてそんなことをさせてやれないが、メイベルが望むなら……。

「いや、俺が同伴できる場合のみだな」

『それでは訓練になりません! 毎日やってこそ、身につくんですから!』

 メイベルの、そんな声が聞こえてきそうだった。

 傍にいても会話ができない。かつての母の姿と重なり、胸が苦しくなった。

「頼む。早くその声を聞かせてくれ」

 ベッドに横たわるメイベルの手を、懇願(こんがん)するようにギュッと握った。この祈りが届きますように、と。