「あれは……白い、蝶?」
アリスター様と、展望台へ通じる中庭に出た途端、あり得ない光景を目にした。けれど、驚いているのは私だけで、アリスター様は微動だにしない。
さすがは数多の戦場をくぐり抜けてきた御仁だと思った。たくさんの白い蝶が、ある一カ所に集まっていても、表情一つ、変えないのだから。
けれどそれが私の勘違いだと気づくまで、数十分要した。
「気にするな。アレは幻と思えばいい」
「えっ? あの白い蝶がですか?」
あまりにも不自然な集まり方をしているだけに、危うくその言葉を信じてしまいそうになった。
けれど蝶たちは幻と思えないほど、はっきりとそこにいる。取り囲んでいる人物が見えないほどに。だからそう簡単に「分かりました」と言えるほど、納得できるものではなかった。
「明らかに、人に群がっているように見えるのですが……」
「ガーラナウム城に出没する幻だ。頻繫に出るから、注意しろ」
何だろう。噛み合っているようで噛み合っていない会話。アリスター様と出会ってから何度もあったが、それとはまた違う。
あの時は私を揶揄う行為として。けれど今は、全身で拒絶している。
「注意というのなら、白い蝶に囲まれている人は大丈夫なのでしょうか?」
「問題ない。あの蝶自体は危険なものではないからな」
「では何が――……」
危険なのですか? と言おうとした瞬間、強い風が吹いた。それも後ろから煽られてしまい、私の体はいとも簡単に押し出された。
勿論、隣にいるアリスター様は、影響すら受けていない。まるで柱のようだと思ったが、今はそれが好都合だった。
私は咄嗟に腕を伸ばす。けれど、判断が遅れたせいで届かなかった。
「メイベル嬢!」
すると、長い腕が私を体ごと引き寄せ、そのままアリスター様の元へ。
このまま、厚い胸板にぶつかってしまうのでは? と思ったが、加減してくれたらしい。アリスター様の胸に手をつく余裕まであるほどだった。
「あ、ありがとうございます」
再び飛ばされないように、強風から守ってくれているのだと分かっていても、抱き締められていることには変わらない。
さきほどの衝撃も相まって、私の心臓は煩く鳴っていた。
喧嘩友達のようだと感じていた気持ちはどこへやら。いくら距離が縮まったからといっても、あくまでそれは気持ちの問題で、物理的な距離は……まだっ!
「あらっ。お帰りになったとは聞いていましたが、本当だったんですね」
突然聞こえてきた歓喜の声に、私の体は固まった。声の高さといい、柔らかい声音。誰がどう聞いても女性の声だった。
メイドであれば、主人であるアリスター様に気安く声をかけない。
ならば乳母のような近しい人? と思ったが年老いた声とも違う。若い女性だ。それも、私と変わらないくらいの。
ガーラナウム城は長い間、女性の家人はいなかったはず。だから、わざわざ私のために女性の使用人を雇ったのだ。
なら、この声の持ち主は、誰?
私は振り返り、確かめようとした。が、その頭をアリスター様に抑えられてしまう。
「城へは、しばらく立ち入り禁止だと伝えたはずだぞ、シオドーラ」
シオドーラ? どこかで聞いたことがあるような……。
「まぁ! それは騎士たちへの命令ではありませんか! 騎士ではない私には無関係。そうでございましょう?」
「お前は騎士団の管理下の元にいる。つまり、騎士団への命令はお前も同じだと、再三言っているのが分からないのか」
「確かに騎士の方々にはお世話になっていますが、私の管轄は騎士たちの補佐ではありません。この辺境伯領すべてです」
何だろう、この既視感。噛み合っているようで噛み合っていない会話は……。
しかも、このシオドーラという女性。アリスター様の話を全く聞いていない。さきほど、私の言葉を完全に拒絶していたアリスター様のように。
「それに、ご婚約されたと聞き及びました。是非、このシオドーラ・ケイスに祝福させてください」
シオドーラ・ケイス!?
妃教育を受けていた時に聞いたことがある。確か、東部で発見された聖女。
本来ならば、首都に招集されて、バードランド皇子の婚約者になる予定だった。けれど私と婚約していたため、すぐに話がなくなったらしい。
何せ、私とバードランド皇子の婚約は、皇后の望みで交わしたもの。ブレイズ公爵家がバードランド皇子の後ろ盾になれば、皇帝となった後も安泰だと考えたのだ。
聖女とはいえ、未だ国民の支持が低い女性と、帝国唯一の公爵令嬢。天秤にかけた皇后は、迷うまでもなくブレイズ公爵家を取った。
私が知る聖女の情報は、その程度のものしか持ち合わせていない。まさか、東部地方の国境を守る、エヴァレット辺境伯領に身を寄せていたなんて……!
そんな私の驚きを余所に、アリスター様はシオドーラに話しかける。私を腕の中に抱いたまま。
「ほぉ、祝福してくれるというのか、聖女様は」
「……はい。領民のため、領主であるエヴァレット辺境伯様が、いつまでも健やかに過ごされますよう、このシオドーラ。切に願っております故」
「では、今すぐ立ち去れ。不愉快だ」
えっ! あ、アリスター様!?
「ブレイズ公爵令嬢にご挨拶を――……」
「その必要もない。俺の命令をすぐに聞けないような奴とさせると思うのか」
「アリ、ス、ター様っ!」
さすがにそれは失礼過ぎです!
私は身動きが取れない中、僅かな隙間を利用して、アリスター様の胸を叩いた。
たとえ聞いてもらえなくても、私の意思は伝わってほしくて。そう、シオドーラに。
けれどアリスター様は、いとも簡単に私から手を離してくれた。呆気に取られながらも、その真意が気になって見上げる。
するとそこには、さきほどシオドーラを突き放した人物とは思えないほどの、優しい顔をしたアリスター様がいた。
「すまない」
「い、いえ。大丈夫です」
こんなあからさまな態度を取られて、分からない私ではない。
自分だけに向けられた好意。
ガーラナウム城の使用人たちの声。
確かに、エヴァレット辺境伯領に来れば、自ずと分かるものだった。
すると、もう一つの疑問が浮かび上がる。何故、私なのか。もっと年の近い令嬢ではなく……。
この時の私はそれに気を取られ、シオドーラから向けられた感情に気づけなかった。そう、挨拶を交わした時に見せた、彼女の笑顔の裏側に。
アリスター様と、展望台へ通じる中庭に出た途端、あり得ない光景を目にした。けれど、驚いているのは私だけで、アリスター様は微動だにしない。
さすがは数多の戦場をくぐり抜けてきた御仁だと思った。たくさんの白い蝶が、ある一カ所に集まっていても、表情一つ、変えないのだから。
けれどそれが私の勘違いだと気づくまで、数十分要した。
「気にするな。アレは幻と思えばいい」
「えっ? あの白い蝶がですか?」
あまりにも不自然な集まり方をしているだけに、危うくその言葉を信じてしまいそうになった。
けれど蝶たちは幻と思えないほど、はっきりとそこにいる。取り囲んでいる人物が見えないほどに。だからそう簡単に「分かりました」と言えるほど、納得できるものではなかった。
「明らかに、人に群がっているように見えるのですが……」
「ガーラナウム城に出没する幻だ。頻繫に出るから、注意しろ」
何だろう。噛み合っているようで噛み合っていない会話。アリスター様と出会ってから何度もあったが、それとはまた違う。
あの時は私を揶揄う行為として。けれど今は、全身で拒絶している。
「注意というのなら、白い蝶に囲まれている人は大丈夫なのでしょうか?」
「問題ない。あの蝶自体は危険なものではないからな」
「では何が――……」
危険なのですか? と言おうとした瞬間、強い風が吹いた。それも後ろから煽られてしまい、私の体はいとも簡単に押し出された。
勿論、隣にいるアリスター様は、影響すら受けていない。まるで柱のようだと思ったが、今はそれが好都合だった。
私は咄嗟に腕を伸ばす。けれど、判断が遅れたせいで届かなかった。
「メイベル嬢!」
すると、長い腕が私を体ごと引き寄せ、そのままアリスター様の元へ。
このまま、厚い胸板にぶつかってしまうのでは? と思ったが、加減してくれたらしい。アリスター様の胸に手をつく余裕まであるほどだった。
「あ、ありがとうございます」
再び飛ばされないように、強風から守ってくれているのだと分かっていても、抱き締められていることには変わらない。
さきほどの衝撃も相まって、私の心臓は煩く鳴っていた。
喧嘩友達のようだと感じていた気持ちはどこへやら。いくら距離が縮まったからといっても、あくまでそれは気持ちの問題で、物理的な距離は……まだっ!
「あらっ。お帰りになったとは聞いていましたが、本当だったんですね」
突然聞こえてきた歓喜の声に、私の体は固まった。声の高さといい、柔らかい声音。誰がどう聞いても女性の声だった。
メイドであれば、主人であるアリスター様に気安く声をかけない。
ならば乳母のような近しい人? と思ったが年老いた声とも違う。若い女性だ。それも、私と変わらないくらいの。
ガーラナウム城は長い間、女性の家人はいなかったはず。だから、わざわざ私のために女性の使用人を雇ったのだ。
なら、この声の持ち主は、誰?
私は振り返り、確かめようとした。が、その頭をアリスター様に抑えられてしまう。
「城へは、しばらく立ち入り禁止だと伝えたはずだぞ、シオドーラ」
シオドーラ? どこかで聞いたことがあるような……。
「まぁ! それは騎士たちへの命令ではありませんか! 騎士ではない私には無関係。そうでございましょう?」
「お前は騎士団の管理下の元にいる。つまり、騎士団への命令はお前も同じだと、再三言っているのが分からないのか」
「確かに騎士の方々にはお世話になっていますが、私の管轄は騎士たちの補佐ではありません。この辺境伯領すべてです」
何だろう、この既視感。噛み合っているようで噛み合っていない会話は……。
しかも、このシオドーラという女性。アリスター様の話を全く聞いていない。さきほど、私の言葉を完全に拒絶していたアリスター様のように。
「それに、ご婚約されたと聞き及びました。是非、このシオドーラ・ケイスに祝福させてください」
シオドーラ・ケイス!?
妃教育を受けていた時に聞いたことがある。確か、東部で発見された聖女。
本来ならば、首都に招集されて、バードランド皇子の婚約者になる予定だった。けれど私と婚約していたため、すぐに話がなくなったらしい。
何せ、私とバードランド皇子の婚約は、皇后の望みで交わしたもの。ブレイズ公爵家がバードランド皇子の後ろ盾になれば、皇帝となった後も安泰だと考えたのだ。
聖女とはいえ、未だ国民の支持が低い女性と、帝国唯一の公爵令嬢。天秤にかけた皇后は、迷うまでもなくブレイズ公爵家を取った。
私が知る聖女の情報は、その程度のものしか持ち合わせていない。まさか、東部地方の国境を守る、エヴァレット辺境伯領に身を寄せていたなんて……!
そんな私の驚きを余所に、アリスター様はシオドーラに話しかける。私を腕の中に抱いたまま。
「ほぉ、祝福してくれるというのか、聖女様は」
「……はい。領民のため、領主であるエヴァレット辺境伯様が、いつまでも健やかに過ごされますよう、このシオドーラ。切に願っております故」
「では、今すぐ立ち去れ。不愉快だ」
えっ! あ、アリスター様!?
「ブレイズ公爵令嬢にご挨拶を――……」
「その必要もない。俺の命令をすぐに聞けないような奴とさせると思うのか」
「アリ、ス、ター様っ!」
さすがにそれは失礼過ぎです!
私は身動きが取れない中、僅かな隙間を利用して、アリスター様の胸を叩いた。
たとえ聞いてもらえなくても、私の意思は伝わってほしくて。そう、シオドーラに。
けれどアリスター様は、いとも簡単に私から手を離してくれた。呆気に取られながらも、その真意が気になって見上げる。
するとそこには、さきほどシオドーラを突き放した人物とは思えないほどの、優しい顔をしたアリスター様がいた。
「すまない」
「い、いえ。大丈夫です」
こんなあからさまな態度を取られて、分からない私ではない。
自分だけに向けられた好意。
ガーラナウム城の使用人たちの声。
確かに、エヴァレット辺境伯領に来れば、自ずと分かるものだった。
すると、もう一つの疑問が浮かび上がる。何故、私なのか。もっと年の近い令嬢ではなく……。
この時の私はそれに気を取られ、シオドーラから向けられた感情に気づけなかった。そう、挨拶を交わした時に見せた、彼女の笑顔の裏側に。