「そこの二人。騒いでいないで、さっさと来い」
静かな廊下。誰もいないと思っていた最中に聞こえた声。これを叫ばずにいられようか。
しかし、私の空いた口は、いとも簡単に塞がれてしまう。ゴツゴツした大きな手によって。
さらに叫びそうになる心を私は必死で抑えた。この状態で相手にとって、不利になる状況を作ってはならない。自身をより窮地に追いたてることを知っていたからだ。
けれど体は素直に反応する。
相手は、私が体を強張らせたのを感じたのだろう。後ろから優しく語りかけた。口元に触れる手も、弱くなっていくのを感じる。
「俺だ。アリスターだ」
え? と思った瞬間に手が離れ、そのまま後ろを振り返る。
安堵したアリスター様の表情に、私は逆に恥ずかしさが増した。
先ほどまで薄暗い通路を通り、誰もいない静かな廊下で、恐怖心が勝っていたとはいえ、相手を予測できなかったなんて。
いくら二週間、邸宅を離れていたからといって、客室に泊まっているのが、アリスター様しかいないことくらい分かるはずなのに。
仮に、誰か他にいらっしゃったら、サミーが教えてくれるはずだから。
そんなことも忘れてしまうなんて……!
「メイベル嬢?」
「い、いえ、何でもありません。それよりも、廊下にいつまでもいたら、誰かに見つかってしまいます」
その者がお母様に告げ口をしない、という保証もない。
「だから俺が話しかけたんじゃないか。二人とも、ほら行くぞ。話はあとだ」
「あと……そうですね。ひとまず」
お母様の『あと』とアリスター様の『あと』は違うのに、思わず反応してしまった。突然、アリスター様は怪訝な顔をする。
「そんなに不満なら、抱えていこうか。エルバートがメイベル嬢にしたみたいに」
瞬時に、帰宅直後のハプニングのことを言っているのだと察した。ここにはサミーしかいないとはいえ、アリスター様にされるのは恥ずかしい。
「いいえ! ご遠慮致します!」
「……まだ、ダメなのか」
「え?」
「いや、何でもない」
あまりにも私が首をブンブン横に振ったからだろうか。想像以上にしょげるアリスター様の姿を見ることになった。あの、偏屈で有名なアリスター様の。
その予想外な出来事に、私も困惑した。
どうして、そこまで気落ちするの? 私、そんなに変なことを言った? いくら婚約者になった、といっても契約結婚だし……無理なものは無理!
「お嬢様。ここはエヴァレット辺境伯様の言葉に甘えましょう」
「えっ! サミー、何を言っているの?」
まさかの伏兵に私はショックを受けた。
「何やら勘違いをしているようなので訂正しますが、場を移そうという提案の方に、です。さすがの私も、誰であろうと……いえ、公爵家の人間以外の者がお嬢様を抱きかかえるのは反対ですから」
「そうよね。さすがはサミー。心強いわ」
「しかし、私は客室に入るのはご遠慮させていただきます」
「え?」
何で? ここまで一緒に来てくれたのに……。
思わず私はアリスター様を見た。
「俺は構わんが……」
「いいえ。ここは見張り役が必要です」
「それならばむしろ、メイベル嬢の傍にいるべきではないのか」
「……つまり、お嬢様に不埒なことでもしようと?」
だから、契約結婚だって! あり得ないでしょう!
「ブレイズ公爵邸で、か? しかも公爵夫人がいるのにもかかわらず?」
「……そうですね。しかし、それではお嬢様に魅力を感じない、と言っているようにも感じます。奥様を倒せるくらいの気合でなくては」
「では、していいというのか?」
「ストップ、ストップ!」
サミーは怒りで気づいていなかったが、アリスター様の口車に乗せられていた。
さすがは偏屈。口まで達者なんて油断も隙もないんだから。それにこのまま話が進んでしまったら……私、何をされてしまうの? というか、お母様の身も危ないのでは?
「サミーは客室の外で監視! それでいいですよね、アリスター様」
「あ、あぁ」
「……お嬢様。身の危険を感じたら、躊躇わずに叫んでくださいね。これでも、お嬢様付きですから、色々と嗜んでいるんです」
何を? と聞くのは無粋だろうか。それくらいサミーの笑顔が怖かった。
静かな廊下。誰もいないと思っていた最中に聞こえた声。これを叫ばずにいられようか。
しかし、私の空いた口は、いとも簡単に塞がれてしまう。ゴツゴツした大きな手によって。
さらに叫びそうになる心を私は必死で抑えた。この状態で相手にとって、不利になる状況を作ってはならない。自身をより窮地に追いたてることを知っていたからだ。
けれど体は素直に反応する。
相手は、私が体を強張らせたのを感じたのだろう。後ろから優しく語りかけた。口元に触れる手も、弱くなっていくのを感じる。
「俺だ。アリスターだ」
え? と思った瞬間に手が離れ、そのまま後ろを振り返る。
安堵したアリスター様の表情に、私は逆に恥ずかしさが増した。
先ほどまで薄暗い通路を通り、誰もいない静かな廊下で、恐怖心が勝っていたとはいえ、相手を予測できなかったなんて。
いくら二週間、邸宅を離れていたからといって、客室に泊まっているのが、アリスター様しかいないことくらい分かるはずなのに。
仮に、誰か他にいらっしゃったら、サミーが教えてくれるはずだから。
そんなことも忘れてしまうなんて……!
「メイベル嬢?」
「い、いえ、何でもありません。それよりも、廊下にいつまでもいたら、誰かに見つかってしまいます」
その者がお母様に告げ口をしない、という保証もない。
「だから俺が話しかけたんじゃないか。二人とも、ほら行くぞ。話はあとだ」
「あと……そうですね。ひとまず」
お母様の『あと』とアリスター様の『あと』は違うのに、思わず反応してしまった。突然、アリスター様は怪訝な顔をする。
「そんなに不満なら、抱えていこうか。エルバートがメイベル嬢にしたみたいに」
瞬時に、帰宅直後のハプニングのことを言っているのだと察した。ここにはサミーしかいないとはいえ、アリスター様にされるのは恥ずかしい。
「いいえ! ご遠慮致します!」
「……まだ、ダメなのか」
「え?」
「いや、何でもない」
あまりにも私が首をブンブン横に振ったからだろうか。想像以上にしょげるアリスター様の姿を見ることになった。あの、偏屈で有名なアリスター様の。
その予想外な出来事に、私も困惑した。
どうして、そこまで気落ちするの? 私、そんなに変なことを言った? いくら婚約者になった、といっても契約結婚だし……無理なものは無理!
「お嬢様。ここはエヴァレット辺境伯様の言葉に甘えましょう」
「えっ! サミー、何を言っているの?」
まさかの伏兵に私はショックを受けた。
「何やら勘違いをしているようなので訂正しますが、場を移そうという提案の方に、です。さすがの私も、誰であろうと……いえ、公爵家の人間以外の者がお嬢様を抱きかかえるのは反対ですから」
「そうよね。さすがはサミー。心強いわ」
「しかし、私は客室に入るのはご遠慮させていただきます」
「え?」
何で? ここまで一緒に来てくれたのに……。
思わず私はアリスター様を見た。
「俺は構わんが……」
「いいえ。ここは見張り役が必要です」
「それならばむしろ、メイベル嬢の傍にいるべきではないのか」
「……つまり、お嬢様に不埒なことでもしようと?」
だから、契約結婚だって! あり得ないでしょう!
「ブレイズ公爵邸で、か? しかも公爵夫人がいるのにもかかわらず?」
「……そうですね。しかし、それではお嬢様に魅力を感じない、と言っているようにも感じます。奥様を倒せるくらいの気合でなくては」
「では、していいというのか?」
「ストップ、ストップ!」
サミーは怒りで気づいていなかったが、アリスター様の口車に乗せられていた。
さすがは偏屈。口まで達者なんて油断も隙もないんだから。それにこのまま話が進んでしまったら……私、何をされてしまうの? というか、お母様の身も危ないのでは?
「サミーは客室の外で監視! それでいいですよね、アリスター様」
「あ、あぁ」
「……お嬢様。身の危険を感じたら、躊躇わずに叫んでくださいね。これでも、お嬢様付きですから、色々と嗜んでいるんです」
何を? と聞くのは無粋だろうか。それくらいサミーの笑顔が怖かった。