「ルフィナ・マクギニス。婚約を破棄させてほしい」

 ダンスホールの一番映える場所。階段の近くに陣取ったローマン・シュッセル公子が、高らかに宣言をした。
 彼の傍らには、薄茶色の髪をした可愛らしい女性の姿が見える。金色の目が私を捉えると、彼女はそっと笑いかけた。

 私は一度目を閉じて、気持ちを落ち着かせる。

「そうですか。破棄するのは構いませんわ。けれど、一応理由を尋ねてもよろしいですか?」
「見て分からないのか。他に愛する人ができたからだ」

 その言葉に、周りがざわめく。シュッセル公子はその意味を、私の中傷だと捉えているようだ。
 小馬鹿にするような表情が何よりの証。だからこそ私は、お返しとばかりに言い返した。

「そうでしたか。で、その相手はどちらに?」

 わざと分かるように、シュッセル公子の隣に手を差し出した。皆の視線が集まる。その中には勿論、シュッセル公子も。
 最初は「こんなことも分からないとは」と呆れ顔をしていたが――……。

「何? さっきまでここにいたはずだが……」
「見当たりませんわね」

 さっき目が合ったことなど、まるで知らないとばかりに、私は顔を左右に振った。その視界の端に、驚きから怒りへ、さらにわなわなするシュッセル公子の姿が垣間見える。
 それがあまりにも滑稽だったのか、後ろからクスクスと笑い声が聞こえてきた。

 普段の行いが行いだけに、シュッセル公子に味方する者は少ない。が、別に私の味方をしてくれているわけではないのだ。
 私はさらに、手を額の高さまで上げて大袈裟に振る舞った。

「どちらに行かれたのでしょうか」
「恥ずかしくなって、逃げてしまったのではないですか? こんな公衆の面前で婚約破棄を言い渡すなんて、信じられませんもの」

 すると、後ろからクラリッサが口元に手を添えながらやってきた。
 オレンジ色の髪を綺麗に結い上げ、ドレスと同じ黄緑色の髪飾りを身につけている。折角のデビュタントだというのに、少し地味になってしまったのは、残念で仕方がない。

 何せ今夜は、シュッセル公子が仕掛けてくると予測していたからだ。
 故に私は潔白を証明する白いドレス。髪飾りも白い花にした。けれど、私は弱さを見せたくない。
 むしろ強気にみせるために、今夜は肩をむき出しにしたAラインのドレスを選んだ。少しだけ悪女っぽく見えるように。

「そのようなことをする人物に、まさか婚約者がいるなんて、夢にも思わなかったのでは? だから驚いて……」

 私の腕にすり寄りながら、クラリッサは尚も追撃する。まるで、婚約する相手がいないほど酷い男だと思われていたんですよ、と暗に言ってみせたのだ。

「なっ、お前たちが怖くて、逃げ出したんだ。そうに違いない!」
「まぁ、私たちのせいにするなんて、失礼極まりないわ!」

 クラリッサがシュッセル公子を睨んだ。

 こらこら。これではどちらが悪女か分からないでしょう。それに、デビュタントで悪印象を与えるのはよくないわ。

「失礼なのはお前たちだろう。財政難に陥って、我がシュッセル公爵家に泣きついてきたのだからな。よもや忘れたわけではないだろう。全く、婚約してやったというのに」
「えぇ、それに関しては、とても感謝しています」

 シュッセル公子の言葉に周りがざわめかないのは、すでに噂がそこまで知れ渡った証拠だろう。ならば私も次の手を使おうとした瞬間、またしてもクラリッサが前に出た。

「お姉様! もうよろしいでしょう。さっさと言って帰りましょうよ」
「そうね。私も早くこんな茶番、終わらせたいわ」
「な、何を言っているんだ」

 シュッセル公子が一歩、後退る。

「ローマン様のお相手、いえ浮気相手ですね。名はエスタ・デルリオという男爵令嬢――……」
「なぜ、エスタの名前を知っている!?」
「最後までお姉様の言葉を聞きなさい! このむぐぐぐ」

 このバカ! と言おうとしたクラリッサの口を塞いだ。
 いくらなんでも、公衆の面前でクラリッサまでも醜態を晒すことはないのよ。

 不満そうな顔を向けるクラリッサに、私は微笑んだ。

「妹が失礼いたしました。エスタ嬢の名を知っているのは、私がローマン様の婚約者だからです。親切に教えて下さる方が、山ほどいらっしゃるんですよ。皆さん、そういうお話が好きですから」

 というのは冗談で。だが、私とシュッセル公子の婚約は、数多くの人間の関心を生んだらしい。王城から帰ってくる度に、お母様が愚痴っていたほどだ。

「その方たちの話によると、彼女に会ったことがある者はいるんですが、デルリオ男爵家を知っている者がいないらしいんです。ローマン様はご存知でしたか?」
「何っ!」
「つまり、デルリオ男爵家なんて、ないって言っているのよ!」

 私の手から逃れたクラリッサが、トドメとばかりに言い放つ。

 折角オブラートに包んで説明して差し上げようとしたのに。せっかちさんね。まぁ、そこも可愛いのだけれど。

「じゃ、エスタは貴族ではないのか」
「正確には、人でもありません」
「何だと!」

 シュッセル公子が驚く度に発する言葉が、すべて同じように聞こえるのは気のせいかしら。きっと語彙力がないのね。しょうがないわ、相手はあのシュッセル公子なのだから。

 溜め息を吐いていると、私の代わりにクラリッサが口を開いた。

「あんた、一カ月前に、猫を蹴って死なせたでしょう」
「あぁ、アレか。そうさ、腹いせに、な。そもそも先に邪魔をしたのは猫の方だ。何もかも上手くいっていたっていうのに。仕返しをして何が悪い!」
「っ!」
「言質は取った。捕まえろ」

 その声と共に、肩にふわりと上着をかけられた。驚いている間に、私の横を通り過ぎて行く騎士たち。
 白を基調とした騎士服は、近衛騎士団の証。まさかと思い、でもそうだと確信を持ちながら、私は呼んだ。

「カーティス様……」