鍋の中でふつふつと煮えるおかゆを眺めながら、阿久津は先ほど見た光景について思考を巡らせていた。

自分の似顔絵を描いてもらったことなんて、中学の時の美術の時間に友達同士でやって以来である。しかも、ごく一般的な中学生の絵だから、鼻の穴がデカく描かれた子供らしい絵で、特になんとも思わなかった。

でも、学が書いた阿久津の絵は違った。もちろん技術的な面で優れているというのは当たり前だが、何というか、表情が誰かに似ている。慈悲深く、優しい微笑み。母性と神秘性を兼ね備えたその表情。そうだ。あれは昔、上野の美術館で見た……マリア様だ。

「ふはっ」

自分で思いついたのに、可笑しくて笑ってしまった。実際の阿久津は、あんな表情したことなんてきっと無い。相当良く描いてくれたのだろう。

きっと深い意味は無い。今まで学はずっとこの家にひとりぼっちで、生身の人間に会っていなかった。だから阿久津を生きたモデルとして珍しく思ってこっそり描いたのだろう。

そう納得しているつもりなのに、おかゆに溶き卵を流し入れる手が何故か震えた。明らかに気分が高揚している。落ち着け。いくらそういうアーティスティックな男性に縁が無かったからって、はるか歳下の男の子に自分の絵を描いてもらって浮かれるなんて痛すぎるだろう。

おかゆが良い感じに出来上がったので、お盆にゼリーとポカリと一緒に載せ、再び学の部屋に行く。今度は本当に余計なものは見ないようにしよう。

「学くん。寝てるかな? おかゆと飲み物持ってきたから、入るね」
「すみません。ありがとうございます」

学は起きていたようで、返事があった。部屋のドアを開ける。机の上に視線が行きそうになるのを堪えて、学の方を見ながら食事を運んだ。

「……ええと」
「重いでしょう。後ろの机に置いてください。さっき片付けました」
「あ、了解」

お盆をどこに置こうか迷ったところ、学に促される。後ろの机とは、例の阿久津の絵があった場所である。振り返ると、彼の言う通りそこにもう絵は置いていなかった。何故か少し残念な気持ちになりながらも、阿久津はそこにお盆をゆっくり置く。

「おかゆ、食べられそう?」
「はい。良い匂いがしますね。いただきます」
「えっ、起きられる? 無理しないでね」
「大丈夫です。ちょっと寝たら楽になった」

ゆっくりとした動作ではあるが、学は起き上がることができた。食べさせる必要あるか……と考えるまもなく、学は茶碗を受け取って自主的に食べ始めた。

「美味しいです。風邪の時におかゆ作ってもらうなんて、都市伝説かと思ってた」
「ええ? んな大袈裟な。風邪の時は大抵家族におかゆとゼリー食べさせてもらったよ」
「そうですか……」

本当に、学は一体どんな家庭で育ったのだろう。阿久津は自分がいかに恵まれていたか知る。

「そういえば、見ちゃいましたよね。イラスト」

沈黙が訪れたところで、学が気まずそうに切り出した。しまった、バレていたか。熱にうなされて朦朧とした中でも、阿久津の挙動は分かったのだろう。

「ああ、うん。見るつもりは無かったんだけど、ごめんね」

嘘をつくことも出来ず、阿久津はただ謝った。以前、学は絵のことを阿久津に尋ねられた時、すぐに話を終わりにしてしまった。何も知らない部外者に絵のことをあれこれ言われるのは多分、好きではないのかもしれない。

「謝らなければいけないのは僕の方です。勝手に阿久津さんの許可も取らず絵のモデルにして」
「いやいや、そんな。私は人にああやって描いてもらったの初めてだったから、ちょっと気恥ずかしかったけど嬉しくもあったよ。ありがとう」
「そういう風に言ってもらえると、少し罪悪感が薄れます」

安心している学を見て、何故か阿久津は欲が出た。

「嫌じゃなければ、学くんの絵、もっと見てみたいな。私の絵とかじゃなくても、今まで描いてきた色々な絵」
「えっ」
「もちろん、嫌じゃなければだよ?」
「なんで、そんな。僕の絵なんて」
「そんな卑下する? 私絵に関してホントど素人だけど、学くんの絵はなんか惹かれるものがあったけどなあ。って、自分の顔の絵に惹かれてるみたいな言い方になっちゃったけど、タッチとか表情の切り取り方とか……上手く言えないけど、他にはどんな絵を描くんだろう、見てみたいって私は思った」

学の顔が赤らんだのは、熱のせいだけではなさそうだった。

「やめてください。照れます」

それから何やら唸り声を上げて少し悩んだあと、学は決心したように言った。

「僕、絵に関しては本当に自信無いんです。確かに、小中学校の同級生や先生に昔はすごく褒めてもらいました。でもそれはきっと、「子どもの絵にしては」という意味だと思います。実際、家族にはケチョンケチョンに言われてました。父は、僕がノートに描いた絵や漫画を兄と姉の前に晒して「これで藝大にでも入れるとでも?」とか「こんなんで食べていけるはずないからやめろ」って。兄と姉もそれに同調して笑ってました」
「はあ⁈ 何それ。食べていけない絵は描いてはだめなの? 絵が好きなら必ずしも藝大に入らないといけないの? というかそもそもあなた方に学くんの絵の価値が分かるの⁈」
「分かりません。でも家族全員……母を除いてうちの家族はそういう価値観に当時染まっていました」
「お母さんは?」
「母は、ハイブランドにしか興味が無い人なんで。「バーキン持った私の絵描いてよ!」としか言わなかったですね」
「ははあ、なるほど……」

キッチンにある無数のブランドものの皿や、家を飾り立てる高級家具はおそらく学の母の趣味なのだろう。阿久津は納得した。まあ、学の趣味を否定しないだけ父親の佐伯社長や兄姉よりはマシかもしれないが、それでも学の絵の理解者とは言い難い。幼少期にこんな人たちに囲まれていては、自分の絵を見られるのが嫌になるのも当たり前だ。

「だから今、阿久津さんに僕の絵を「もっと見たい」と言ってもらえて、本当かな? って思う気持ちもまだあるけど、とても嬉しいです。そう言ってくれるなら、恥ずかしいですけど他の絵も阿久津さんに見てほしいです」

絵を他人に見せたらまた笑われるかもしれない、否定されるかもしれない。そうした恐怖を乗り越えて阿久津に絵を見せてくれると約束してくれた学。阿久津は彼との絆の深まりを感じて嬉しくなった。

「ありがとう! すごく楽しみ」
「そ、その代わりと言ってはなんですが……僕の方からも一つ、お願いがあります」
「うん、なんでしょう?」

学は緊張してか、なかなか次の言葉を言い出せなかった。一呼吸、ふた呼吸置き、ようやくそのお願いを口にする。

「阿久津さんに、僕の絵のモデルになってほしいんです」