「ただいまー…あれ?」

阿久津が47階に引っ越して1ヶ月経とうとしていた時、彼女が帰宅すると、キッチンからいい匂いがする。何かが焼ける、ジューという音も聞こえた。

「えっ! もしかして私、朝食べたスープ火にかけっぱなし⁈」

阿久津は慌てて鞄を投げ捨てるように置き、キッチンへと走る。こんな物件で火災を起こしたら、賠償金は阿久津の代どころか末代まで支払っても終わらない額になる。

だが、そこには思わぬ光景が広がっていた。

「あ。阿久津さん、おかえりなさい!」
「学くん⁈」

ガスのつけっぱなしというのは阿久津の思い過ごしだった。学がキッチンに立ち、フライパンを握っていたのである。何やら焦っているようで、キッチンには野菜の端っこやご飯粒などが散乱していた。

「あの、散らかしてごめんなさい」

目を見張って辺りを見回した阿久津に叱られると思ったのか、慌てて謝罪する学。

学の側には、二つの平皿。そこに、ケチャップで味付けしたと思われるご飯と、卵を焼いたものが上に載っている。

「もしかして学くん、オムライス作ったの?」

阿久津が聞くと、学は意外そうにしながらも頷いた。

「う、うん、オムライス……のつもりです。良かった、オムライスに見えたんですね。卵がうまく焼けなくて、スクランブルエッグみたいになっちゃったけど」
「お皿二つってことは、私の分も作ってくれたの?」
「嫌かもしれないけど、一応……」

阿久津は下を向いた。不覚にも、少し感激してしまった。泣くまではいかないが、ちょっとウルッときてしまった。家族の味を知らない、料理を一度もしたことがない青年が、一生懸命作ってくれた。

「食べるに決まってるよお! 本当に、凄い! ありがとう」

阿久津はそう言って、自然と学に感動のハグをしていた。

「わ、ちょっと阿久津さん……!」
「おっとごめん! 危うく星さんみたいになるところだった」

阿久津は慌てて学から離れた。6歳も離れた年下男子にセクハラをかますなんて。

「誰ですか星さんって」
「あ、いやいやこっちの話」

阿久津はハハハと笑って誤魔化した。学の白い肌がいつにも増して真っ赤に染まっていて、本当に申し訳ないことをしたと思った。

「それより、本当にごめんね? 気軽に触られたりとか、嫌だったよね。これから気をつける」
「いや別に、いいですけど。全然……」

ゴニョゴニョとその後も学は阿久津に聞こえない声で何か言っていた。

「あの、大丈夫? 学くん」
「だ、大丈夫です! 阿久津さんも、気にしないで」
「わ、分かった……! それじゃあ、早速だけど……そのオムライス、いただきたいな」
「食べてくれるんですか? こんな失敗作なのに」
「え? 失敗してる? 凄く美味しそうだよ。いい匂いする」
「そう、ですか」

学は照れ隠しなのか、ケチャップや油で汚れた手でポリポリと頬の辺りをかいた。


◇◇◇

「美味しい! 学くん、本当にオムライス作るの初めて?」
「初めてですけど……阿久津さん、大袈裟ですよ。包丁も適当に材料微塵切りにして、決められた調味料とご飯と一緒に炒めて、卵は失敗したし」

2人で向かい合って食卓に座り、オムライスを頬張る。阿久津の言葉に嘘はなく、学のオムライスはバターの香りがほんのり効いた、彼女好みの味だった。

「いやいや、火加減とか加熱時間とかね、他にもちゃんとやらないといけないんだけど、でも学くんのオムライスはしっかり火が通ってて丁度いいよ」
「それは、良かったです。すみません。阿久津さんが買ってきた調味料とか食材、冷蔵庫から勝手に使っちゃいました」
「そんなの気にしないで! というかそれ、凄いね。冷蔵庫のあまり食材からオムライス作れるなって思ったわけでしょう? それ上級者のやつだからね! 学くん、料理のセンスあるんじゃないかな?」
「それは分からないですけど、結構、楽しかったです。料理作るの」
「それは良かった」

最近、学から前向きな言葉を聞けるようになったので阿久津は喜ばしかった。

「ありがとうね。美味しかった。ご馳走様」

学は空になった阿久津の皿をじっと見て、頷いた。


◇◇◇


それからというもの、阿久津が仕事から帰宅すると、毎日のように温かい食事が用意されていた。パスタや焼きそば、炒飯から始まり、カレー、麻婆豆腐、ハンバーグ、肉豆腐など、どんどん美味しそうなメニューを学は開拓し、それを阿久津に振る舞ってくれた。

最初こそ生焼けになってしまって追加でレンチンしたり、具材が大きすぎたりしたが、そのような失敗も回を追うごとになくなり、阿久津の腕を越えるのではないかという熟練度になってきた。

「いつもありがとうね。平日は毎日料理してくれて、大変でしょう?」
「いえ。大抵ウーバーで食材を宅配してもらうんですが、やっぱり分量的に2人分くらいできてしまうので。だから、阿久津さんは気にしないでください」

いつのまにかこんな他人に気を遣わせない言い回しまで覚えている。というか、最近学は敬語で喋るようになった。かといってよそよそしいわけではなく、むしろ態度は柔らかく、自然に喋ってくれるようになった気がする。

「僕、本当はもっと頑張りたいんです。料理だけじゃなく、掃除も」
「いやいや学くん! そんな一気に無理しないで。良ければ私と一緒にやろうよ」

そうでないと、阿久津も自分が何のために存在しているのか分からなくなる。教育係を任命されたのに、ただ高級物件に居候して、ご飯も掃除も学に任せっぱなしとは、社長に顔向けできない。しかし、学は張り切っている。

「いや、一応僕たち家族の家ですから。阿久津さんは料理や掃除を任されたわけでなく、僕の先生として招待されているんですからそんなことしなくていいんです」
「せ、先生? そんな大したものでは……」

なんだか学には阿久津が大層な人物に見えているようだった。

「とにかくさ、あまり無理をせず、ちょっとずつ身の回りのことをできるようになればいいんだよ」
「大丈夫です。阿久津さんをこんな空間にいつまでも居させるわけにはいかないです」
「ええ、私は平気だよ」

急にどうしちゃったの、と思ったが、頑張ろうとしている本人を止めるのも違う気がしたので阿久津はそれ以上何も言わなかった。