次の日から、阿久津と学は毎朝、挨拶を交わすようになった。

「おはよう、学くん」
「おはよう、ございます」

か細い声で、目も合わないままの挨拶。でも、今はそれでいい。挨拶が出来たことが大きな進歩だ。まずは人と話すことの楽しさ、心地よさを知ってもらえたらと思う。

時々、学が朝に起きて来ない日は、学の部屋のドアをノックして挨拶だけはした。

「学くん、おはよう。今日も会社に行ってきますね」
「……はい」

なんと返事したら良いか分からないのか、短い返事のみが返ってくる時もある。でもそれでいい。一歩一歩だ。

阿久津が引っ越して2週間もすると、他にも学に変化があった。

阿久津の料理を食べるようになったのである。阿久津が多めに食事を作り、「食べる?」と聞くと学はいつもそれを食べた。食べるペースはゆっくりだが、残すことはなかった。いつも宅配ばかりの彼には、出来立ての温かい食事が新鮮だったのかもしれない。最初は自室に持って行って食べていた学であったが、ここ数日は阿久津と一緒の食卓につくことすらあった。

その晩は金曜日で、次の日が休みということで、阿久津がちょっと手のかかる料理を作ろうと餃子の準備をしている時だった。餃子のタネを混ぜていると、学がひょっこりキッチンに現れた。

「あ、学くん。起きてたんだ」
「……おかえりなさい」

いつの間にやら自分から挨拶するようになった学。阿久津も思わず笑みが溢れる。

「ありがとう。ただいま。今日は餃子を作ろうと思って。餃子好き?」
「……はい。たまにウーバーイーツで頼むかな」
「そうなんだ! それは良かった。私が作るのは母親直伝で、お店とはまた違う、家庭の味って感じの味なんだけど」
「あ、あの」
「ん?」
「料理作ってるところ、見ててもいいですか?」
「え! いいよ、もちろん。料理興味ある?」
「ん、そう……ですね」

学は少し言い淀みながらも付け加えた。

「……阿久津さんの料理はいつも美味しいので。僕も、やりたいなと思って。皿洗いだけだと申し訳ないから」

目を逸らしながら言う学の耳が赤くなっていた。

可愛い。なんだろうこの感情。母というか、姉になったような気持ち? 分からない。でも、佐伯社長に言いたい。あなたの息子はとても素敵な素直な子ですと。

「ありがとう。そんなこと言ってもらえるなんて思わなかった! それなら学くん、こっちに来て一緒にやろうよ。餃子ってちょっと面倒だけど、包むの楽しいよ。ほら、手洗って」
「え、あ、分かった……」

阿久津は学に餃子の皮を渡し、やり方を説明していく。

「こうやって皮の端に水をつけて、一個に使うタネはこれくらい。あまり入れすぎると包む時にはみ出すから」
「こう、ですか?」
「そうそう! 上手。そうしたらヒダヒダを作っていくの」
「難しいな……」
「お皿に一旦置くとやりやすいよ。うん! いいね。初めてとは思えない」
「阿久津さんは何でも褒めるから……」
「そんなことないよ! ホントに上手!」

阿久津は思わず吹き出した。実際、学は手先は器用なようで、あっという間に餃子の包み方をマスターした。途中で遊ぶ余裕も出るくらいに。

「何、それ⁈」
「一個、春巻き風のも作ろうと思って」

そう言って学は変わった形に包んだ餃子を並べる。

「それ肉汁出ないかなー! まあいいや、じゃあそれが有りなら私はクレープ風!」
「いや、それもうタネ丸見えですけど」

2人で笑いながら、いくつか特殊な餃子を用意した。学が声を出して笑うのを初めて見ることができて、阿久津は安堵した。

ひとしきり笑った後、ふと、学がつぶやいた。

「家族って、こういうことやってるものなのかな」

その言葉に少し胸がチクリと痛むのを感じた。