「礼拝堂で待っているから、終わったら来てくれ」
「うん。ありがとう、エリアス」

 微笑むマリアンヌの顔に手を伸ばした。金色の前髪をかき分けて、そっと額にキスを落とす。
 本当は嫌なんだと、名残惜しいんだと言わんばかりに。

 一瞬、閉じられたオレンジ色の瞳を見つめると、俺の気持ちが通じたのか、苦笑いされた。

「それから、あまり長く待たせないでほしい」
「分かったわ。気をつけるね」

 一体、何に“気をつける”のか分かって言っているのだろうか。
 思わず確認したくなった。しかし、これ以上困らせるわけにはいかない、と思って気持ちを押し留めた。
 そうしないと、本気でマリアンヌに嫌われるような気がしたからだ。

 後ろ髪を引かれる思いの中、俺は中庭から礼拝堂へと向かった。
 一人で、案内もなしに……辿り着けると思っているのだろうか。

 多分、マリアンヌは気づかずに言ったんだろうな。そういう抜けているところがあるから。いや、俺なら大丈夫だと思っているのか……。

 俺は頭を掻きながら、その考えを否定した。

 マリアンヌのことだから、きっと深く考えずに言ったのだろう。とにかく俺とオレリアを離したかった。ただそれだけのために。

 自業自得は俺の方か。

 気を取り直して、中庭からハイルレラ修道院の建物に入る。すると、すぐに廊下に出くわした。
 育った教会もそうだが、こういう建物の廊下というのは、どこも似ている。

「院長と別れた廊下を引き返して、右に曲がってここに出たから。……あそこにある角を左に曲がれば、元の廊下に戻れるか」

 だが、その先が分からない。とにかく、来た道を引き返してみることにした。

「――。――もう少しだ」

 人の声がする。ちょうどいい、礼拝堂への道を尋ねてみるか。
 しかし、曲がった直後に声をかけると、相手を驚かせてしまう。俺は立ち止って、向こうが曲がってくるのを待った。

「本当ですか? もう足が疲れてしまいました」

 さっき、聞こえたのは男の声。今度は女の声だった。

 ハイルレラ修道院は、シスターと修道女が生活をしている場所だが、男子禁制というわけではない。
 俺のような参拝者をはじめ、守衛や庭師など、男性も出入りしているのだ。

 だから疑問には思わない。むしろ、疑問に感じるのは女性の声の方にだった。

 シスターとは思えない媚びた声。言葉使い。
 普段なら聞きたくもない声なのに、耳を傾けてしまう。それは聞き覚えのある声だからだ。

 だが、俺が知る声の主は、小馬鹿にする言動が多い。だからきっと、別人なんだろう。そう思っていた。

「ならば急ごうか、レリア」
「はい」

 レリア!? レリアだって!? 確かにあいつの声に似ているが……。あいつは、と思った矢先、角から男が姿を現した。
 その横で、男に寄り添うようにして歩く、青い髪の女の姿も……。

 優しく微笑み、嬉しそうにしているが、間違いない。孤児院でよく、俺にちょっかいをかけてきたレリアだ!
 何だ、あの顔は。(あざけ)る顔以外、見たことがないぞ。

「っ!」
「どうしたんだい、レリア?」
「えっと、あの、その……」

 向こうが俺の姿に動揺している。
 それもそうだ。二年ほど前に、レリアはバルニエ侯爵家に引き取られた。が、それを俺が知っていることなど、向こうは知らない。

 孤児院から出て行った者のほとんどは、自分が孤児であったことを隠したがる。それ故に、孤児院との関わりを断つ傾向にあった。まぁ、俺は出て行った後も、孤児院とやり取りをしているけどな。
 だから、レリアがバルニエ侯爵家の養女になったことを知っていた。

 逆にレリアは知らない。カルヴェ伯爵家で過ごしている、俺の事情を。

「ん? 知り合いかい?」
「えーと……」

 困っているな。ここは知らない振りをするのが、暗黙の了解。しかし、俺も困っていた。
 礼拝堂への道が分からない。さらに通りかかる人物もいない。これは声をかけるしかない場面だった。

 だから悪く思うなよ、レリア。あくまで、仕方がなく、だ。けして、今までの仕返しじゃないからな。

「すみません。ちょっとお尋ねしたいことがあるんですが」
「!」
「礼拝堂へ行くには、この道で合っているのでしょうか? 道に迷ってしまいまして」

 レリアが少しだけ、後ろに下がったのが見えた。相手の男も、それに気づいたらしい。庇うように前に出た。

「それなら、そこの角を曲がった後、また左に曲がって、真っ直ぐ行ったところにある」

 なるほど。来た道を引き返して、あのまま真っ直ぐに行けば良かったんだな。

「ありがとうございます」

 俺はそれだけ言うと、二人の横を通り過ぎた。さっきも言ったように、レリアに仕返しをするつもりはないし、関わるつもりもなかった。

「ちょっと待って!」

 一瞬、誰に言ったのか分からず、そのまま歩いていると、突然、腕を掴まれた。

「な、何だよ」
「あんた、エリアスだよね。そうなんでしょう」
「折角、穏便(おんびん)に済ませてやったのに、何で来るんだ」
「やっぱりエリアスなのね」

 話が通じないのも、相変わらずか。

 俺が呆れてため息を吐いていると、相手の男もやってきた。さすがに不審な顔で俺を見ている。

「やっぱり知り合いだったのかい?」
「……はい。始めは、他人の空似かなって思ったんです。四年振りだったから、すぐに分からなくて」
「そうか。四年振りなら仕方がないな。だが、こんなところで知り合いに会えて、良かったではないか」
「殿下のお陰ですわ」
「殿下?」

 その言葉に、思わず反応する。

「紹介するわ。こちらフィルマン・ヨル・バデュナン王太子殿下」

 目の前の男が王太子だというのにも驚いたが、続けて言うレリアの言葉に、俺は衝撃を受けた。

「私の婚約者なの」