遡ること、一時間ほど前。
俺はある人物に捕まっていた。
一日の業務を終え、いつものように旦那様の執務室から出て行く。この時間はすでにポールの姿はなく、俺は急ぎ足で宿舎にある自室に向かった。
荷物を置いて、身支度を整える。
一日一、二時間くらいしか会えないが、それでもマリアンヌの前でだらしない格好はしたくない。疲れた姿も見せたくなかった。
ネクタイはどうする? していかなかったら警戒されるだろうか。
いや、カフスを付けているんだ。関心はそっちに向くだろう。
ケヴィンのアドバイスがあったとはいえ、マリアンヌからのプレゼントには変わらない。
一通りチェックを終えてから部屋を出ると、なぜかニナさんが待ち構えていた。
「お嬢様の部屋へ行く前に話があるわ」
マズいな。ここで足止めされたら、いつもの時間に間に合わない。
「マリアンヌと会った後ではダメなんですか?」
「当たり前でしょう。そのためにここで待っていたのよ。頭のいいエリアスなら、その理由も分かるんじゃない?」
棘のある言い方だ。明らかに怒っているのが見てとれた。
理由か。ニナさんはマリアンヌ専属のメイドだ。
二年前、ユーグが滞在していた時は傍を離れていたが、朝と夜だけはマリアンヌの所に行っていた。
着替えを手伝うために。
だから、ニナさんが怒っている理由は一つしかない。
「安心してください。マリアンヌが嫌がることはしませんから」
「たとえお嬢様が承諾してもダメなものはダメ! いいこと、ここは伯爵邸であり、お嬢様は伯爵令嬢なのよ。ちゃんと慎みなさい」
要約すると「私のお嬢様に手を出すのは言語道断。分かったわね!」といったところだろうか。
四年前、カルヴェ伯爵邸に来て分かったことがある。使用人の種類についてだ。主に二つに分類される。
一つは、ニナさんのようにマリアンヌを可愛がる人たち。
所謂、旦那様の味方だ。
二つ目は、マリアンヌの出自を気にする人たち。
平民の血が流れているから結婚相手を探すのに苦労するとか、社交界で後ろ指を指されないかとか。そんな理由で心配しているのならまだいい。
マリアンヌは弱い人間じゃないし、結婚相手を探す必要はない。
問題は、前にリュカが俺をバカにした理由と同じ考えの人間だ。
平民の血が流れていると言って、非難する。
貴族社会はそれが当たり前であり、仕えている主には高貴な青い血であってほしいという願望なんだろうけど……。
まぁ、ずっとリュカが庇っていたから、本人の耳に届くことはなかった。何だかんだで、あいつはあいつなりにマリアンヌを守っていたってことなんだろうな。
腹は立つが……。
「分かりました。肝に銘じておきます」
「本当でしょうね。またあったら、旦那様に報告するから、覚悟しておきなさい」
「……旦那様に、ですか」
マリアンヌもニナさんも、何かにつけて旦那様、旦那様と。目障りなリュカがいなくなったと思ったら。
「何?」
「いえ。ただ、マリアンヌよりも旦那様を心配した方がいいと思いまして」
「エリアス! お嬢様には……」
「言いませんよ、勿論」
ホッとするニナさんを見て、俺も安心する。だが、時刻は差し迫っていた。
そう、普段ならもうマリアンヌの部屋にいる時間だ。
「それじゃ、俺はこれで失礼します」
「えぇ。引き留めて悪かったわね。私がそう言っていたって、お嬢様にも伝えてもらえる?」
足早に立ち去ろうとした瞬間、ニナさんから謝罪された。
振り返ると、先程までの強気な態度はどこへやら。申し訳なさそうな表情をしていた。
「いいんですか? そんなことを言ったら、マリアンヌに責められますよ」
「っ……構わないわ。お嬢様の身の安全が第一だから」
ニナさんのような人間が、マリアンヌの傍にいるのは心強い。それと共に、旦那様以上の強敵だと感じざるを得なかった。
「……分かりました」
もう呼び止められることはないだろう。
今度は足早ではなく、走って向かうことにした。
まさか、マリアンヌが部屋の外に出ていることなど、思いも知らずに。
***
マリアンヌを抱えたまま、テス卿が開けてくれた扉を潜る。
慣れ親しんだ部屋を見渡して、いつものようにソファのところへ行った。
一先ず、マリアンヌを座らせなければ。
だが、ソファに下ろそうとしても、マリアンヌは嫌がった。なら、俺がソファに座り、いつもと同じ体勢になろうとすると、また首を横に振られてしまう。
遅れてきたことで、マリアンヌの機嫌を損ねたのは分かる。しかも、こうして甘えてくれるのも嬉しい。
しかし、あれもこれもダメなら、どうしたらいいんだ。
いや、ダメだといっているのはすべて、マリアンヌが想像できるものだ。
俺の首に腕を回していて、顔は後ろを向いている。前は見えていない。
だったら、と俺はソファではなく、もっと広いベッドへ向かった。
一度マリアンヌをベッドに寝かせる。
「っ!」
案の定驚いて、腕に力を込めていた。しっかり掴まっていることを確認した後、そのままの体勢でマリアンヌの体ごと、俺は仰向けになった。
「キャッ!」
何が起こったのか分からず、マリアンヌは小さな悲鳴を上げる。
鼓動が激しく動いているのが分かった。
「エリアス!」
顔を上げるマリアンヌ。まさか俺の体の上にいるとは思わなかったのだろう。怒った顔が、一瞬で驚きに変わった。
俺はある人物に捕まっていた。
一日の業務を終え、いつものように旦那様の執務室から出て行く。この時間はすでにポールの姿はなく、俺は急ぎ足で宿舎にある自室に向かった。
荷物を置いて、身支度を整える。
一日一、二時間くらいしか会えないが、それでもマリアンヌの前でだらしない格好はしたくない。疲れた姿も見せたくなかった。
ネクタイはどうする? していかなかったら警戒されるだろうか。
いや、カフスを付けているんだ。関心はそっちに向くだろう。
ケヴィンのアドバイスがあったとはいえ、マリアンヌからのプレゼントには変わらない。
一通りチェックを終えてから部屋を出ると、なぜかニナさんが待ち構えていた。
「お嬢様の部屋へ行く前に話があるわ」
マズいな。ここで足止めされたら、いつもの時間に間に合わない。
「マリアンヌと会った後ではダメなんですか?」
「当たり前でしょう。そのためにここで待っていたのよ。頭のいいエリアスなら、その理由も分かるんじゃない?」
棘のある言い方だ。明らかに怒っているのが見てとれた。
理由か。ニナさんはマリアンヌ専属のメイドだ。
二年前、ユーグが滞在していた時は傍を離れていたが、朝と夜だけはマリアンヌの所に行っていた。
着替えを手伝うために。
だから、ニナさんが怒っている理由は一つしかない。
「安心してください。マリアンヌが嫌がることはしませんから」
「たとえお嬢様が承諾してもダメなものはダメ! いいこと、ここは伯爵邸であり、お嬢様は伯爵令嬢なのよ。ちゃんと慎みなさい」
要約すると「私のお嬢様に手を出すのは言語道断。分かったわね!」といったところだろうか。
四年前、カルヴェ伯爵邸に来て分かったことがある。使用人の種類についてだ。主に二つに分類される。
一つは、ニナさんのようにマリアンヌを可愛がる人たち。
所謂、旦那様の味方だ。
二つ目は、マリアンヌの出自を気にする人たち。
平民の血が流れているから結婚相手を探すのに苦労するとか、社交界で後ろ指を指されないかとか。そんな理由で心配しているのならまだいい。
マリアンヌは弱い人間じゃないし、結婚相手を探す必要はない。
問題は、前にリュカが俺をバカにした理由と同じ考えの人間だ。
平民の血が流れていると言って、非難する。
貴族社会はそれが当たり前であり、仕えている主には高貴な青い血であってほしいという願望なんだろうけど……。
まぁ、ずっとリュカが庇っていたから、本人の耳に届くことはなかった。何だかんだで、あいつはあいつなりにマリアンヌを守っていたってことなんだろうな。
腹は立つが……。
「分かりました。肝に銘じておきます」
「本当でしょうね。またあったら、旦那様に報告するから、覚悟しておきなさい」
「……旦那様に、ですか」
マリアンヌもニナさんも、何かにつけて旦那様、旦那様と。目障りなリュカがいなくなったと思ったら。
「何?」
「いえ。ただ、マリアンヌよりも旦那様を心配した方がいいと思いまして」
「エリアス! お嬢様には……」
「言いませんよ、勿論」
ホッとするニナさんを見て、俺も安心する。だが、時刻は差し迫っていた。
そう、普段ならもうマリアンヌの部屋にいる時間だ。
「それじゃ、俺はこれで失礼します」
「えぇ。引き留めて悪かったわね。私がそう言っていたって、お嬢様にも伝えてもらえる?」
足早に立ち去ろうとした瞬間、ニナさんから謝罪された。
振り返ると、先程までの強気な態度はどこへやら。申し訳なさそうな表情をしていた。
「いいんですか? そんなことを言ったら、マリアンヌに責められますよ」
「っ……構わないわ。お嬢様の身の安全が第一だから」
ニナさんのような人間が、マリアンヌの傍にいるのは心強い。それと共に、旦那様以上の強敵だと感じざるを得なかった。
「……分かりました」
もう呼び止められることはないだろう。
今度は足早ではなく、走って向かうことにした。
まさか、マリアンヌが部屋の外に出ていることなど、思いも知らずに。
***
マリアンヌを抱えたまま、テス卿が開けてくれた扉を潜る。
慣れ親しんだ部屋を見渡して、いつものようにソファのところへ行った。
一先ず、マリアンヌを座らせなければ。
だが、ソファに下ろそうとしても、マリアンヌは嫌がった。なら、俺がソファに座り、いつもと同じ体勢になろうとすると、また首を横に振られてしまう。
遅れてきたことで、マリアンヌの機嫌を損ねたのは分かる。しかも、こうして甘えてくれるのも嬉しい。
しかし、あれもこれもダメなら、どうしたらいいんだ。
いや、ダメだといっているのはすべて、マリアンヌが想像できるものだ。
俺の首に腕を回していて、顔は後ろを向いている。前は見えていない。
だったら、と俺はソファではなく、もっと広いベッドへ向かった。
一度マリアンヌをベッドに寝かせる。
「っ!」
案の定驚いて、腕に力を込めていた。しっかり掴まっていることを確認した後、そのままの体勢でマリアンヌの体ごと、俺は仰向けになった。
「キャッ!」
何が起こったのか分からず、マリアンヌは小さな悲鳴を上げる。
鼓動が激しく動いているのが分かった。
「エリアス!」
顔を上げるマリアンヌ。まさか俺の体の上にいるとは思わなかったのだろう。怒った顔が、一瞬で驚きに変わった。