「うっうう……あぁぁぁ……」

 僕が入れたお茶を飲んだ途端、椅子から落ちて苦しむ、マリアンヌ。
 どうして。何で。お茶の中は確か……。

「げほっげほっ……うっ……」

 咳き込む声に視線を向けると、今度は血を吐き出した。
 何で? あのお茶を飲んで、血を吐くことなんてないのに!
 でも、現にマリアンヌの服は血に染まっている。

「マリアンヌっ!」

 どうにかしないと、とマリアンヌに近づこうとした瞬間、エリアスが扉を蹴り破って入ってきた。
 倒れるマリアンヌの姿に驚いた様子を見せたが、迷わず一直線に近づいていく。
 そのせいで僕は立ち尽くすしかなく、さらにエリアスの体が壁になって、マリアンヌの様子が分からなくなってしまった。

「頼む、飲んでくれ」

 多分、解毒剤か何かだろう。もうここまでくれば、マリアンヌが毒を飲んだことは理解できる。
 けど、なぜあいつは知っているんだ? 僕がオレリア様から受け取った物の存在を。

「っ!」

 そう考えていると、エリアスが突然、マリアンヌに口付けをして、頭が真っ白になった。
 怒りすら起こらなかった。何故なら、エリアスに躊躇いがなかったからだ。それも慣れた様子にさえ見えてしまう。

 もしかして、マリアンヌとそういう関係なのか? ずっと傍にいるから。
 いや、二年前、エリアスを連れてきたのはマリアンヌだ。その時にはもう二人は……。だから、僕から距離を取っていたのか。
 僕ではなく、エリアスを選んだから。最初から入り込める隙なんてなかったんだ。それなのに僕は……僕は……。

「うわぁ!」

 動揺している最中、突然腹を強く蹴られた。背中に壁が当たるほどの勢いは、そのままエリアスの怒りを示しているようで、さらに痛く感じた。

「バカだとは思っていたが、ここまでバカだったとはな。……これで済むと思うなよ」

 エリアスの捨て台詞が、胸に突き刺さる。
 そんなの今の僕が一番よく分かっているさ。エリアスに言われなくても。
 僕はそのまま、膝を抱えて(うずくま)った。


 ***


「ねぇ、どうかしら。リュカにとっても、悪い話じゃないと思うのよ」

 オレリア様がカルヴェ伯爵邸にやってきてから三日目。いつものようにお茶をお出しすると、突然ある提案を僕に持ち掛けてきた。

『ユーグにマリアンヌを取られたくないのなら、先にものにしたくはない?』という甘い誘い。

「好きなんでしょう? だったら……」
「いくら僕がお嬢様をお慕いしていても、それはダメです。僕には荷が重過ぎますし、何よりお嬢様には、同じ貴族であるユーグ様のような方が望ましいと思います」
「何よ。いい子ぶっちゃって。無理しなくてもいいのよ。確かにお父様は、マリアンヌとユーグを婚約させたがっているけど、本当はどうでもいいの」

 オレリア様は椅子から立ち上がり、僕の肩に触れる。それがゾッとするほど気持ち悪かった。

「要はマリアンヌをこの屋敷から出せれば、何だっていいと考えているんだから」
「その話がどう繋がって、お嬢様を僕のものにするという話になるんですか?」
「頭が悪いわね。貴族の女性は純潔を大事にするのよ。それを貴方が奪えばマリアンヌはどうなると思う?」

 純潔が大事なのは知っている。それを奪ったら……。

「喜んでくれるかしら」

 それはあり得ない。
 ここ二年、マリアンヌには会えていなかったが、屋敷の中を歩く姿を見ている。その横には必ずエリアスがいた。
 僕にはもう向けてくれない幸せそうな表情に、どれだけ胸が締め付けられたことか。

 あいつよりも、僕が先に出会ったのに。僕の方が先にマリアンヌを好きになったのに。
 どうして、あいつを選ぶんだ! 僕じゃないんだ!

 辛くて、悔しくて、窓を思いっきり叩いた。部屋に戻って机を、ベッドを叩いた。
 それでも晴れなかった。

 もしも、マリアンヌを自分のものにできたら、この心は晴れるのだろうか。

「そうね。喜ばないでしょうね。マリアンヌはエリアスが好きなようだから」
「っ!」
「もし、リュカがマリアンヌの純潔を奪ったら、傷ついて貴方を嫌うかもしれない。でも、考えてみて。マリアンヌはこれで、貴族と結婚できなくなるのよ。これを活かさない手はないでしょう」
「どうやって」

 声が震えた。聞いてはいけない。けれど、僅かな望みに手を伸ばしてしまった。
 オレリア様は僕を椅子に座らせて、後ろから囁いた。そう悪魔の囁きを。

「傷ついたマリアンヌを逆に支えてあげるのよ。献身的に世話をすれば、いくらなんでも折れるんじゃないかしら。そしたら、マリアンヌを連れて、伯爵邸を出るの」
「駆け落ち、ですか?」
「えぇ。マリアンヌだってユーグと結婚したら、私のような姉とも付き合うことになるのよ。自分でも良い義姉とは言えないから、うまくできないと思うの」

 そうだ。ユーグ様と結婚したら、マリアンヌは必ず苦労をする。オレリア様だけでなく、アドリアン様もいるのだから。

「リュカは、その未来からマリアンヌを救うのよ」
「救う?」
「そう。リュカ以外にはできないことよ。マリアンヌを助けてあげられるのは」
「エリアスじゃなくて、僕が?」
「助けてあげて、マリアンヌを。最初は後悔するかもしれないけど、長い目で見たら、あの時この選択をして良かった、と言える日が来るわ。絶対に」

 そう思ってくれるだろうか。幼い日の頃のように。また、あの幸せそうな笑顔を向けてくれるだろうか。

「大丈夫。自信を持って。好きなんでしょう、マリアンヌが」

 いつの間にか目の前に立っていたオレリア様は、ある物を僕の手の中に入れた。
 細長い瓶。オレリア様の言葉から、中に入っている液体は、媚薬だろう。
 急に緊張して、手が震えた。

「これを使って、リュカの望みを叶えて。応援しているわ」


 ***


 媚薬入りの瓶を持ったまま、自室に戻った僕は、そのままベッドに潜り込んだ。

『それを使う時は言って。サポートしてあげるから』

 帰り際に聞いた、オレリア様の言葉が忘れられなかった。瓶を両手で握り締めて、見つめる。

 これを使えば、エリアスのものにはならない。僕だけを見てくれる。僕だけのマリアンヌになる。
 大丈夫。オレリア様が何とかしてくれる。
 そう思ったら、答えはもう出ていた。

 翌日、オレリア様の私室に入ると、何故か執事のポールがいた。

「出て行く必要はないわ。ポールも貴方に用があって来たのだから」
「用とはなんでしょうか」

 大方予想はできたが、それはあくまでオレリア様の方だ。
 ポールが分からない。わざわざオレリア様の部屋で、僕に言うだろうか。いや、二年前のように、僕の部屋を尋ねるはずだ。

「言ったでしょう。サポートしてあげるからって」
「しかしあれは、その、使う時だって仰っていたではないですか」
「そうよ。勿論、使うんでしょう、リュカ」

 穏やかな口調で言いつつ、オレリア様が近づいて来る。

「私は伯爵邸に二週間しかいられないのよ。残りの日数を考えてみて。早ければ早い方が良いに決まっているでしょう、ねぇポール」
「仰る通りです、オレリア様」

 僕は思わず、ポールを見た。ニヤリと笑う姿に、昨日のオレリア様の言葉を思い出した。

『助けてあげて、マリアンヌを』

 そうだ、助けないと。オレリア様からも、アドリアン様からも。さらに二人と繋がっていたポールの手からも。

「僕はいつ、使えばいいですか」

 その言葉に、オレリア様とポールが頷き合い、決行日は二日後となった。

 僕は表向き、オレリア様と一緒に領地へ行くことにして、伯爵邸に残る。
 障害となるエリアスを、オレリア様の見送りという名目で足止めをして、その間にマリアンヌを呼び出す、といった算段だ。
 手はずはすべて、ポールが手を回してくれた。

 その結果が、まさかこんなことになるなんて、この時は思わなかった。


 ***


 これからどうしたらいいんだろうか。さっきまでマリアンヌが横たわっていた床を眺めた。
 床が血を吸って、黒く変色している。
 マリアンヌは無事だろうか。いや、マリアンヌより、自分の心配をするべきか。

 平民が貴族令嬢に毒を盛ったのだ。死刑は免れない。

 逃げる? どこに?

 もう伯爵邸に居場所はない。例えマリアンヌが助かったとしても、確実に嫌われたことだろう。
 生きている意味があるんだろうか。

「こんなことを聞くのはおかしいかもしれないけど、大丈夫?」

 突然話しかけられたが、もう驚くほどの気力はなかった。
 目だけ動かすと、旦那様によく似た、けれど幼い顔をしたユーグ様がそこにいた。

「いいえ。もう終わりです。僕を早く治安隊に引き渡してください」
「反省はしているんだね。毒は姉様から?」
「……はい」
「治安隊に引き渡す前に、ちょっと僕に協力してもらいたいんだけどいいかな。姉様に騙された後で悪いんだけど」

 死刑が待っているんだ。ユーグ様に利用されても構わないと思った。けれど、一つだけ条件を出した。

「マリアンヌがどうなったか、あとで聞かせてもらえるのなら、いくらでも協力します」
「勿論、お安い御用だよ。僕と一緒に、カルヴェ伯爵領に行ってほしいんだ」
「そんな、なんで?」

 領地に? ユーグ様の真意が分からなかったが、有無を言わせない迫力と冷たさが、どことなく旦那様を連想させた。顔が似ているせいだろうか。