「エリアス。報告はまだあるだろう」
「は、はい。えっと、使用人の調査報告ですが、前回と変わりません」

 前回、とは俺が伯爵邸にやってきたばかりの時に、調査したものだった。
 すでに中にいたニナさんと、新参者(しんざんもの)の俺。全く異なる二人の目線から調査することで、見えなかったものが見えるかもしれない、という旦那様の提案で、始まった調査。

 俺としては、誰がアドリアン様の密偵だかは分からない。だから、知り得た情報をそのまま旦那様とニナさんに渡すしかなかった。

 一カ月経った今回は、俺への評価も加わって、さらに情報を引き出すことに成功したものの、有益なものは得られなかった。

 逆に、リュカが俺の悪評を広めていることが分かったが。あまり相手にしないことにした。

 誰もが、マリアンヌのことで、俺に嫉妬しているのだと言っていたからだ。だから俺は、リュカよりもマリアンヌの方が気になった。あいつのこと、どう思っているんだろう。

「ニナも同じか?」
「はい。不審な動きをしている者はいませんでした」
「そうか。リュカがエリアスのことを随分と言っている話が、私の元にまでくるのだが、それでも何もないのかい?」

 ニナさんが俺の方を見たため、一歩前に出た。

「勿論です。それに、リュカだけでなく、俺を嫌っている人間が他にもいます。けれど、旦那様との取引の方が、俺にとっては重要ですから」
「アドリアンからマリアンヌを守り、さらに失脚させる、何かしらの成果を果たせたら、マリアンヌと結婚させてほしい、だったかな」
「はい」

 調査を依頼した旦那様に、俺は取引を持ち掛けていた。正確には、誓約書のようなものだ。

 旦那様からしたら、俺が失敗したとしても、痛くも(かゆ)くもない。マリアンヌとの結婚だって、後でいくらでも反故(ほご)にできる。そうアドリアン様さえ、どうにかできればいいのだから。

 さらに、忠誠心の証でもあった。マリアンヌがいる限りは裏切らない、という。

「それならもう一つ、重要なことがあるだろう」
「なんでしょうか」
「マリアンヌの気持ちだよ。いくら私がエリアスを認めても、マリアンヌが拒否すれば意味がない」

 今はまだ答えを言わなくていい、とマリアンヌには言っていたが、実際はどう思っているのかは分からなかった。

 反応を見ると、悪くはない、と思う。拒否しないし、顔だって赤くなる姿を何度も見ている。それを好意だと捉えるのは、思い上がりかもしれないけど。

「それを前提に取引していますので、心配はご無用です」
「ならば私も、一応言っておこうか。マリアンヌが君と結婚したいと言いに来なければ、許可はしないからね」
「……分かりました」

 強敵を懐柔(かいじゅう)したかと思ったら、そう容易くはなかったらしい。むしろ、難易度を上げたような気がした。


 ***


 そう思うと、マリアンヌもやっぱり旦那様の子供なんだと感じる。

 手が伸びそうになるサラサラした金色の髪や、クリっとしたオレンジ色の瞳で、マリアンヌが笑顔を見せれば、温かい気持ちになる。

 こんなにも旦那様に似ていないのに、厄介なところはソックリだった。

 あれだけ近づかせないようにしていたのに、いとも簡単にあいつに会ってしまうんだから。いや、あいつがこの僅かな隙を見逃さなかったことに、警戒するべきか。

「エリアス」

 マリアンヌを部屋に送り届け、出ようとした時だった。振り替えると、なぜか心配そうな顔を向けられる。

 やっぱり、リュカに何かされたのか?

 急いでマリアンヌに近づく。すると、それを待っていたのか、俺が尋ねる前に、マリアンヌが口を開いた。

「お父様に何か言われたの?」

 予想外の言葉に驚いて、すぐに返事ができなかった。

「その、お父様に時々呼び出されているでしょう。さっきみたいに。だから、何か良くないことを言われたのかなって」

 あぁ、さっき『俺のことを考えてくれるだけで、いいんだけど』って言ったから、気にかけてくれたのかな。すぐに喜んでしまう自分を、必死に抑えた。

「大丈夫。いつもの定期報告だから」
「あっ、叔父様の。……あまり良くなかったの?」
「いや、そういうわけじゃないんだ」

 正直、どこまでマリアンヌに話していいのか、分からなかった。旦那様からは、俺の判断でいいと委ねられているけど。

 不安にさせたくない。

「何も成果を出せないから――……」
「怒られたの?」
「違うよ。俺が勝手に焦っただけ」

 不安なのは俺の方かと、内心ため息をついた。安心したくて、今すぐにでもマリアンヌを抱き締めたい。手を伸ばせば、簡単にできるのに。俺はその手を強く握りしめた。

 すると、その手をマリアンヌに握られてしまう。

「エリアス。私にできることがあったら、何でも言ってね。協力するから」

 廊下での出来事を、もう忘れたのかな。このまま引っ張ることだってできるのに。

「例えば?」
「え?」
「何ができるのか分からないのに、マリアンヌに頼めないよ。マリアンヌはお嬢様なんだから」

 思わず意地悪な言い方をした。『何でも』なんて、俺に向かって軽々しく言うから。

「えっと、できることは少ないけど、話し相手くらいなら」
「話し相手?」
「うん。悩み事とか、頭の中がごちゃごちゃしている時に、誰かに話すことで、整理できるっていうでしょう。どうかな。それくらいしか、浮かばなかったんだけど」

 旦那様に似て、一筋縄ではいかないな。しかも、話の内容を聞きたいがために、提案したようにも見える。

「分かった。でも、今は別のことをお願いしたいんだけど、いい?」
「……変なことじゃなければ」

 やっぱり警戒されている。他のお願い、と言われれば、そうなるよな。

「無体なことはしないし、もう言わないから、一回だけ。一回だけでいいから、抱き締めさせてほしいんだ」
「……一分。ちゃんと守ってくれるなら、別に一回だけじゃなくても……いいよ」

 思わず、返事を言わずに、マリアンヌの体を引き寄せた。心の準備が出来ていなかったのか、驚いた声が聞こえたが、気にしなかった。

 一分、ってどれくらいだろう。さっきと同じように、力を入れたら怒るかな。

「エ、エリアス。一分、経ったよ」

 そう考えている内に、マリアンヌから声がかかった。

 仕方がない。でもちゃんと守れば、またできるから、と名残惜しそうに体を離した。

 一分は短いよ、マリアンヌ。

 そう言いたくなったが、すぐに言葉を飲み込んだ。マリアンヌの顔が赤かったからだ。

 これは思い上がりじゃないよな。きっと。今はそれだけで満足した。