「大学生になって、適当な友達はできたけれど、深く付き合っていこうという気にはなれませんでした。仲良くなって、すごく好きな友人になったらどうしよう、…そんなことばかり考えてました。それでも色々と誘ってくれるから、感謝はしているんですけど…なんというか、自分からどうこうしようみたいな風には、思えませんでした。」

 悲しそうな声というわけではないのに、綾乃は顔を上げられないでいた。

「綾乃さん、そんなに強く握ったら手が痛くなっちゃいますよ。…楽しくない話ですみません。」

 触れた手の温もりや優しさが、今は痛くて切ない。折角話してくれているのに、これは勇気がいる話だっただろうにと思うのに、こんな場面ですら健人は綾乃を優先する。

「…強く握っちゃってごめんね。」
「どうせ握るなら、僕の手にしませんか?」
「え?」

 涙の滲む顔だとわかっていたが、綾乃は顔を上げた。

「握るというか、僕の手の上に綾乃さんの手を預けてくれませんか?」

 いつかのように差し出された手の上に、綾乃はそっと、片手を置いた。指先がきゅっと優しく握られた。

「綾乃さんは不思議です。突然現れて、僕の目を奪って、思考も奪った。でも、それが嫌じゃなくて、…無くしかけていたものを見つけたみたいな、そんな気持ちになりました。綾乃さんが美味しいって言ってくれるだけで、その日のもやもやしたことが吹き飛んで、綾乃さんが話しかけてくれるのが嬉しくて。…喪失の怖さが、薄れたわけじゃないのに。」

 目を閉じると、あの店で過ごした時の健人の表情がさまざまに浮かんできた。体調が悪くて久しぶりに店に行ったときは、体調の悪さを見透かした、不安げな表情。美味しいと伝えたときの嬉しそうな表情。誕生日に駅に迎えにきてくれたときの柔らかな表情。