「自分が綾乃さんの特別な人だったら、たとえば今日みたいに無理にお酒をたくさん飲んでフラフラになってしまう前に、話を聞いたり、一緒に美味しいものを食べたりできたかなとか。」
「…うん。」

 敬語になったり、ポロリと気安い口調になってしまったりと、綾乃の口調の乱れは心の乱れだった。お客さんの『綾乃』と、そうではないただの『綾乃』を行ったり来たりしている。健人の本音がこぼれる度に、ただの『綾乃』が顔を出してしまう。

「迷惑かけてごめんね、よりも…頼りたいときに呼ばれて、ありがとうって言ってもらえる存在になれるのかな、とか。」
「…底なしに優しいんだね、健人くんは。」
「…誰に対しても、こんな風に思うわけじゃ、ないです。」
「誰に対しても思ってたら、それは心配になっちゃうよ。」
「…こういう気持ちになるのは、綾乃さんを見ているときが初めてで。できればずっと、オーナーと話しているときみたいにニコニコしていてほしくて…。だから、本当は今日のお酒も、止めたかったです。その権利は、僕にないのでしませんでしたけど…。」

 健人の優しい気持ちと、穏やかな声がじんわりと綾乃のささくれだった心に吸い込まれていく。口元が緩んでいく。誰かが自分を想って心配してくれることが、こんなに嬉しいことだということを綾乃に思い出させてくれる。

「…ごめんねよりも、ありがとうを先に言うべきだったね。ありがとね、いつも優しくしてくれて、美味しいご飯を作ってくれて、…こうやって、気にかけてくれて。ずっと、…うん、前からちゃんと嬉しかった、です。はい。」
「やりすぎとか、迷惑とかじゃなかったですか。」
「そういう風に思ったことは一度もないです。」
「…良かったぁ。」

(…顔見えないの、ちょっと惜しい、かも。)

 きっと可愛い顔で笑っているんだろう、なんて綾乃は勝手に想像した。