冬の空気は肺に対して厳しかった。折角嫌なことから意識を逸らしたくて酔ったはずなのに、その冷たさが意識を現実に引き戻そうとしてくる。それでも今日の綾乃は、全部忘れて酔っている人でありたかった。あまり大きく息を吸い込みすぎないように気をつけながら、少し指示が届かなくなっている足を動かし、帰路につく。

「…あの。」
「ん?」
「歩くの、辛くないですか?」
「辛くないよ~この距離でタクシー使うの、勿体ないもん。」

 間が落ちる。過去に送ってもらった時にはポンポン進んだ何気ない会話が、今日は続かない。それはおそらく、健人が気を遣って、言葉を探しているからなのだろう。何を言われたって、今日の自分は全て酔いのせいにして忘れたと言い張ることだってできるのになんて思いながら、綾乃も口は開かなかった。
 静かな冬の夜に、パンプスの踵の音がクリアに響く。それ以外の音がしない空気の中、綾乃の右隣から小さく息を吸う音が聞こえた。

「…あの、綾乃さんが…嫌じゃないなら。」
「ん?」

 突然止まった、健人の足。それに合わせて綾乃も立ち止まる。珍しく俯いていて、表情はよく見えない。

「おんぶ、しますけど…。」

 絞り出すように落ちた言葉。言葉と一緒に、白く染まる呼吸。

「…綾乃さん、足元がずっとフラフラしてるから、転んでしまいそうで…。」

 ようやく合った目に、優しさを見つけてしまう。今優しくされたら、本気で泣いてしまいそうだ。泣きたくなくて、この空気を壊したくて、綾乃は口を開いた。

「年下の男の子にそんなことさせられませーん!お世辞にも小柄で華奢とは言えない体だしー。」

冗談めかして、優しさを受け取らずに流そうとするなんて最低だ。それは酔った頭でも、意識の遠くの方ではわかっていた。