あの日から健人は『綾乃ちゃん』呼びをずっと続けている。綾乃の方も意外とすんなり受け入れている。もっと自分に似合わな過ぎて慣れないかと思っていたが、健人が呼ぶと可愛さの具合が丁度良く感じられて、思いのほか違和感はなかった。

「じゃあ、今呼んで?」

 気が付くと綾乃の背中には軽く健人の腕が回っていて、逃げられない。

「健人…。」
「うん。」
「よ、呼びました!」
「…下の名前を呼び捨てしてくれる人って、ほとんどいないから嬉しい。」
「そう言われたらそうかもしれない…。私も綾乃って呼んでくれる人、仲いい友達2人くらいと家族だけ…かな。」
「家族…そっか、家族みたいで嬉しかったのかな。」

 ぎゅうっと健人が再び綾乃を抱きしめた。

「来てくれてありがとう。…綾乃ちゃんが来てくれたの、すっごく嬉しい。」
「泣きたいときとか、ピンチのときは隠さずに呼んでくれるんじゃなかったの~?合鍵渡してたし、来てくれても良かったのに。」
「…行こうかなって思ったんだけど…。」
「うん。」
「あんまりご飯を食べる気にもなれないから、作る意欲もなくて…美味しくも食べれないし…。どうやったら気持ちが落ち着くかとか、そういう解決策ももってないから、そんなぐちゃぐちゃな状態で行くのもなぁって。あいた!」

 綾乃が背中をちょっとだけつねる。

「あんなにぐっちゃぐちゃな私を見たくせにそんなのずるくない~?今日は全部喋らせるし、泣かせるから!」
「はは、確かにずるいね。綾乃ちゃんの前でかっこ悪くなるのが嫌とかそういうんじゃないんだけど…。綾乃ちゃん、お仕事で疲れてるから、自分のことで疲れさせたくはないなって、そういうことも考えてたから合鍵使えなかったっていうのは…あります。」
「鍵、いつ使ってくれるのかなぁって、ちょっと楽しみにしてたのにな。」
「えっ!?ごめん!」

 がばっと離れて、悲しそうな表情を浮かべてから、思い切り頭を下げた。そこまで必死になられるほど怒ってはいなかったのに、あまりに必死なのでつい笑みが零れた。

「そんなに怒ってないから顔上げて。でも、この前はさ、私もうっかりしてて家族のこと聞けなかったから、今日話そうよ。お互いに。私、…健人の家族のことも、たくさん知りたいよ。素敵なご両親だと思ってるので。」
「…なんでそう思うの?」
「健人が優しい人だから。こんなにいい子を育ててきた人たちが素敵じゃないわけないもん。」

 綾乃はにかっと笑った。その笑みに、健人の心の奥の冷え切った部分が少しだけ温まるのを感じる。

「綾乃ちゃん、今日泊まっていってくれる?」
「えぇ!?オーナーさんの許可取ってないよ?」
「じゃあ、お店閉めた頃に電話して聞く。」
「…着替え、ないんですけど。」
「一回綾乃ちゃんのお家に取りに行く?散歩したい。」
「…したいこと?」
「うん。綾乃ちゃんとしたいこと。」
「わかった。やりたいことしようって言ったの私だし、やろう。」

 『オーナーさん、ごめんなさい、勝手に決めて』と心の中で盛大に謝り、健人と二人で夏の夜の外へと繰り出した。