* * *

「あれ、今日は健人くん、バイト休みですか?」
「そうなんです。本当はシフトが入っていたんですけどね。」
「…ですよね。」

 健人のシフトは、本人から教えてもらっていて知っていた。今日もいることがわかってきたはずなのに当の本人はいない。綾乃の知る限りでこんなことは初めてだった。

「今日ここに来ることを健人に伝えていましたかね?」
「あ、いえ。仕事が早く終われば行けそうって感じだったので。」
「…なるほど。」

 もうすぐ8月がやってくる、そんな時期に差し掛かっていた。金曜夜の店内はそれなりに人も多く、今日はオーナーも一際忙しそうだった。

「人手が明らかに足りてない感じですよね。」
「あ、いえ。代わりの子は見つかったので大丈夫なんですけど、健人がいないと仕込みやら色々時間がかかるので、帰るのが遅くなりそうだなと思いまして。」
「…あの、健人くんに何かありましたか?」
「一昨日くらいから体調を崩していまして。」
「あ、そうだったんですね。」
「この時期は毎年ダメなんです、あの子は。」
「え…?」

 ふと蘇る、かつて話してもらったこと。高校1年の夏、健人が失ったものを思い出す。

「あ…。」
「風邪というか、おそらくは精神的なものなんでしょうね。とにかく1週間程度はずっとだめなんです、この時期。」
「…あの、ご自宅に私が突撃したらその…困ります、かね?」
「え?」

 突撃以外にも言い方はあったはずなのに、咄嗟に出てきたのは突撃だった。オーナーは目を一度は丸くしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。

「いえ、困りません。むしろ、心置きなく残業ができるのでありがたいです。お願いしても?」
「はい、もちろんです。」
「少々お待ちくださいね。鍵を持ってきますので。」

 しばらくして、オーナーは綾乃に鍵を手渡した。綾乃は受け取った鍵をぎゅっと握った。

「…お預かりします。」
「何か食べたいと言ったら冷蔵庫を開けていただいて構いませんので、適当に作ってやってもらってもいいですか?自分でやると言うような気もしますが、親代わりとしては少し甘えさせてやりたい。」
「もちろんです!甘やかすためにお伺いするので。」
「はは、綾乃さんにお任せすれば間違いないですね。健人のこと、よろしくお願いします。」

 健人が『綾乃ちゃん』呼びをするなら、僕も『綾乃さん』と呼ぶレベルに昇格してもいいんじゃないかというオーナーの提案により、呼び方が少しだけ変わった。健人が綾乃の家によく泊まりに行くようになってからは一層、温かい目で見守ってくれている。
 綾乃はオーナーの目をまっすぐ見て頷いた。

「お任せください!いつもたくさん、健人くんにお世話になっている分を今日はきっちり返します!」