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 健人の誕生日当日。綾乃は有給を取っていたにも関わらず早めに起きた。
 軽く掃除をして、キッチンを片付け、いつもより少し気合いを入れて服装を選ぶ。化粧もいつもより時間をかけて行い、ストンとソファに腰掛けた。

「…気合い、入りすぎてるって思われちゃうかな?」

 綾乃が泣き喚いたあの日以降、健人が泊まりに来ることも増えたが、一線は越えていない。ただ抱きしめられて眠るだけ。それに対して不満があるわけではなかった。しかし、自分から「もっと触れたい」と言う勇気もなかった。だからこそ、誕生日には勇気を出したい。
 たくさんもらった『可愛い』の言葉にも、『好き』の言葉にも、何度も励ましてもらった。自分で本当にいいのかなと考えることが確実に減って、もっと健人に笑ってほしいと思うようになった。

「…ちゃんと言う。うん。大丈夫。」

 綾乃はきゅっと拳を握って頷いた。
 立ち上がって冷蔵庫を確認する。お昼まではあと1時間だ。炊飯器のお米はあと30分で炊ける。

 窓からふと見上げた7月の空はクリアで、雲がまばらに漂っている。風はあまりないようで、雲の流れはゆっくりだ。今日の雲のように穏やかな日々が続いていてありがたいと思う一方で、もっと踏み込みたいと思う自分も確かに存在する。
 まだ聞いていない、健人の両親の話。亡くなっていることは知っていても、どんな人だったのかはまだ聞いていなかった。聞けば話してくれるのだろうが、なかなかそういうタイミングもなくここまできた。

「前はお家でどんなふうに祝っていたのかなぁ。」

 家族がしてくれていたようにしてあげたい気持ちもある。もう健人に、それをしてくれる人はいないと今は知ってしまっているから。

「…自然に家族の話を出すのって…どうやるのかな。」

 綾乃はふうと小さく息を吐いた。家族を亡くした人が友達にも、彼氏にもいた試しがない。健人は色々な面で、綾乃にとっては『初めての人』だ。
 ピンポンとチャイムが鳴る。

「はーい!」

 玄関を開けると、にっこりと微笑む健人が立っていた。

「綾乃さん、ただいま。」
「おかえり。早かったね。それに外、暑かったでしょ?汗かいてる。」
「ちょっと早歩きになっちゃいました。早く帰ってきたくて。…綾乃さんがおかえりって言ってくれるの、いいですね。」
「っておかえりよりも先に言うことがあった。…お誕生日おめでとう。」

 綾乃の手を両手で包むように握った健人は、笑みを柔らかくして口を開いた。

「…ありがとうございます。今年も祝ってもらえて嬉しいです。」