それでもキミと、愛にならない恋をしたい


 本当なら、あの観覧車に乗っていたのは私じゃなかった。学校の図書室で勉強を教えてもらうのも、意地悪で少年のような笑顔を間近で見るのも、彼の不思議な能力の話を打ち明けてもらうのも、本当は私じゃなくて彼女だったかもしれない。

 私は……亡くなった恋人の代わり?

『楓はずっと「自分は恋愛する気はない」とか「忘れられない子がいる」って言ってた』

 日野先輩が聞いた話は、きっと原口希美さんのことだよね。彼女を忘れられないでいるのなら、私は二番目ということ?

 幸せに輝いていた遊園地の思い出が、グラグラと揺れて崩れていく。

 お父さんと再婚した真央さんに疑問を抱いていたのに、私も大切な人を亡くした人を好きになってしまったなんて……。

 どくどくどく、と嫌なリズムで鼓動が刻まれる。日が傾き、風が冷たくなってきた。指先がカタカタと震えているのは、きっと寒さのせいだけじゃない。

 どうしよう。明日、先輩は学校に来るのかな。いったい、どんな顔をして会えばいいんだろう。

 先輩はお墓参りに行ったと私に話してくれるのかな。私はそれにどう答えたらいい?


「楓先輩もお父さんと同じ……。忘れちゃダメな人がいるのに、どうして……」

 指先だけでなく、身体全体が震えだす。両手で自分を抱きしめるようにぎゅっと肘を掴んだけど、一向に震えは収まらない。

 次第に目頭がじわりと熱を持ち、ぽろぽろと涙が零れた。

「あれ? やだ、なんで……」

 自分がどうして泣いているのか、わからない。

 悲しくて、苦しくて、やるせない。感情の吐き出し口がなくて、もどかしい。

 お母さんを裏切って真央さんと再婚したお父さんも、そんなお父さんと重なる楓先輩も、受け入れられない真央さんと同じ立場であることも、心が拒否反応を起こしている。

 なにより、たった十五歳でこの世を去らなくてはならなかった原口希美さんに嫉妬心を抱いている私自身が、とても醜く感じる。


 私は健康で、友達もいて、なに不自由なく生きている。それなのに、事故で命を奪われてしまった人に嫉妬するなんて……。

 なんて自分勝手で、どれだけ思いやりがない人間なんだろう。

 自己嫌悪でいっぱいになり、耐えられそうにない。

 ベンチに座ったまま身体を丸め、声を殺して泣いた。

 泣いて、泣いて、浮かぶのはあの日の楓先輩の温かさ。今みたいに泣きじゃくる私の手を握り、そっと寄り添い、ただそばにいてくれた。

「楓先輩……」

 あの優しいぬくもりが恋しい。

 だけど、先輩は遠い場所へ忘れられない人に会いに行っている。私が楓先輩を好きでいつづけるのは、亡くなった原口さんを裏切っているんじゃないかな。

 そう考えた途端、私はお母さんの豪快な笑い方を思い出せなくなった。




 初めて母親に心の声について尋ねた日のことを、いまだに覚えている。

 手を繋いでいるときだけ声が二重で聞こえてくるのが不思議だった。

 食べたいものを聞かれて「からあげ!」と答えたら、母は「いいわね」と微笑んだ。けれど同時に『こんな時間から揚げ物をしろっていうの?』と怒っている声も聞こえたのだ。

 母だけじゃない。保育園の先生と手を繋いで鬼ごっこしていた時は「たくさん遊ぼうね」と言いながら『疲れた、少し休みたい』と言っていたし、妊娠していた友達のお母さんのお腹を触りながら性別を尋ねた時は「どっちだろうね?」と言いながら『やっぱり次は男の子がほしいなぁ』と言っていた。

 それを伝えると、最初は笑っていた母が徐々に顔を強張らせていった。 

 その時は「なんだろうね」と曖昧に誤魔化されて終わったが、その声が他の人には聞こえていない声なんだと気付くのに時間はかからなかったし、触れている時にだけ心が読めるのだと認識したのは小学校に上がる前だった。

 触れた人の心が読めるというのはかなり厄介な力で、本来なら知り得ないことを知ってしまう。

 相手の本心が実際に話している言葉とかけ離れていればいるほど、それを聞いた時の衝撃は大きい。さらにそれが信頼していた人であればなおさらだった。

 こんな力があるせいで、自分は不幸だ。親から疎まれ、友達にも気軽に触れられず、恋なんて一生できない。

 ずっとそう思って生きてきた。あの日、菜々と出会うまでは――――。



 空港から電車とバスを乗り継いで二時間半。昼前にようやく目的地に着いた。

 住宅街の中にある広々とした境内を訪れるのはこれで二度目。三回忌法要を終えたばかりの希美の両親がこちらに気付き、小さく微笑んでこちらにやって来た。

「久しぶりね、楓くん。今年も来てくれたのね」
「お久しぶりです。希美に線香あげてもいいですか?」
「もちろんよ。こんな遠いところまでわざわざ来てくれて、希美も喜ぶわ」
「僕たちはこれから会食に行くけど、よかったら楓くんも来るかい?」
「ありがとうございます。でも、四時の飛行機を取ってるので」

 まさにとんぼ返りのスケジュールだが、関東と九州の移動距離を考えれば仕方がない。飛行機代だけでなく宿泊費まで両親に工面してもらうのは気が引けた。

 家族同士で交流があったため、命日に墓参りに行きたいと告げると反対はされなかったが、さすがに高校生がひとりで宿泊するとなると泊まる場所などの手配に手間がかかる。いい顔をされないのは心を読まなくてもわかりきっていた。

 それに明日も平日なので、今日中に帰らなくては二日間学校を休むことになってしまう。それは避けたかった。


 残念そうな希美の両親に頭を下げて別れ、敷地内にある原口家の墓へ向かう。

 バス停の近くのスーパーで買った小さな花束と、希美が生前好きだったジュースの缶、それから激辛と表示のあるスナック菓子を墓前に供えた。

「久しぶり、希美」

 線香をあげ、両手を合わせて彼女に話しかける。

 希美の母と俺の母親が仲がよかったのもあり、幼い頃からよく一緒に遊んでいた。俺の母親は働いていたから保育園に、希美の母は専業主婦だったから幼稚園にそれぞれ通っていたが、同じマンションに住んでいたため交流があったようだ。

 小学校に入学して少しした頃、俺の能力を完全に理解した両親が俺を恐れつつ疎み始め、仕事を理由に放課後は原口家へ預けられることが多かった。

 避けられている。そう理解した時は寂しさや怒りが湧いたが、すぐに諦めて受け入れた。

 互いにひとりっ子だったせいで遊び相手ができて嬉しかったし、希美の母は嫌な顔ひとつしないで俺の面倒を見てくれた。


 物心がついてからは決して他人に触れないようにしていたから本音はわからないが、実の両親よりも希美の両親の方がよほど優しくて温かい。週に何度かは夕食に呼んでくれたし、テストでいい点数を取ると褒めてくれた。そんな環境だったから、希美とは友だちというより兄妹のように育った。

「今日はさ、報告があるんだ。俺、彼女できた」

 照れくさいような、でも誇らしいような気持ちで菜々の顔を思い浮かべた。左側から見上げてくる上目遣いや、はにかんだ笑顔が好きだ。今日一日会えないと思うだけで、物足りなさを感じるほどに。

 完全に初恋に溺れているのを自覚し、自分自身に苦笑した。さすがにそんなこと、家族同然の希美にだって話せない。

「希美の参考書を拾ってくれた、あの子だよ」

 希美に話しながら、俺は菜々と初めて会った日のことを思い出す。

 菜々は事故に遭いそうなところを助けたのが初対面だと思っているが、実はそうじゃない。彼女は覚えていないだろうけど、俺にとっては忘れられない出来事だ。


 あれは、希美の四十九日が過ぎた頃。高校受験を直前に控え、通っていた塾からの帰り道。俺は通行人とぶつかってカバンを落とし、中身をぶちまけてしまった。

 咄嗟に拾おうとした時、一冊の参考書が目に入った。希美の両親が「楓くんにもらってほしいの。あの子の分まで、受験頑張って」と渡してくれた、希美が使っていたボロボロの参考書だ。

 それを見た途端、彼女との思い出が走馬灯のように駆け巡った。

 希美は小学生の頃からうちの高校の制服に憧れていて、「あの制服を着て、イケメンの彼氏をゲットしたいの!」という理由で志望校を決定した。うちの高校を受験するには学力が足りていなかったため、俺が部活おわりに彼女の家で勉強を教えていたのだ。

『楓は高校に入ったらなにしたい?』
『別に。変わらず部活で弓道するくらいだろ』
『もっとやる気だして! だって高校生だよ? 青春だよ? 彼女作ればいいじゃん。楓めちゃくちゃモテるのに告白も全部断ってるから、私と付き合ってるんじゃないかって噂まで立ってるんだよ?』
『興味ない』

 兄妹のように育った希美にも、俺の能力のことは話さなかった。気を遣われるのは嫌だったし、学校でどう噂されようと、自分に恋愛なんてできるわけがないからどうでもよかった。


 部活に弓道を選んだのも、人に触れられずにできるスポーツの中から選んだだけだ。意外にも俺には合っていたようで、なにも考えずに集中できるし、今後も続けようと思っている。

『もったいないなぁ。私が楓くらいモテたら、片っ端から付き合うわ。っていうか、私がモテない一因は楓との噂のせいかもしれない!』
『アホか。人のせいにすんな』
『高校入ったら噂もリセットされるし、可愛い制服着て、髪伸ばしてメイクもして、イケメンと付き合うから! 私が青春を謳歌してたら、楓も恋愛に興味が湧くかもよ? だから絶対同じ高校入って、ラブラブっぷりを見せつけてあげる』
『なんだそれ』
『だって、楓って特定の誰かとつるまないでしょ? 友達がいないわけじゃないのに一匹狼っていうか。姉の立場としては、これでも心配してるんだから』
『誰が姉だよ。俺のが誕生日、先だろ。……青春を謳歌すんのは、この問題解けたらな』
『うわっ、因数分解! 楓の鬼ー!』

 希美は優しい両親に愛されて育ったからか、天真爛漫でいい意味で欲望に忠実だった。無邪気に笑う妹のような希美が羨ましくて、少しだけ疎ましく感じたのを覚えている。

 学校でも男女ともに友達が多く、受験がうまくいけば彼女の望みは叶うはずだった。