光の中から女性が現れた。

 波打つ白金色の髪を靡かせて歩く姿は、どこか懐かしい。彼女は背丈ほどある大きな杖を手に持っている。
 ロゼッタは「あっ」と小さく声を漏らした。白金色の髪の女性の顔立ちはどこか自分と似ており、口をついて名前が出てくる。

「ローゼ様?」
「正解よ。女神様におつかいを頼まれて、届けに来たの」

 ローゼはゆっくりとしゃがむと、ロゼッタと同じ珊瑚色の瞳を優しく眇めて、彼女をじっと見つめた。

「この杖をあなたに託すわ。重いから気をつけなさい。ここの端と端を持つといいわ」
「この杖は何ですの?」
「人はこれを”女神の秘宝”または”ガラティアソス”と呼んでいるわ」

 黒霧の魔女が探し求めていた伝説上の宝の名前を聞き、絶句した。
 今までに何人もの少女たちがこの杖のせいで命を落としてきた。珊瑚色の瞳を持つ少女の身体に宿ると言い伝えられていたせいで悲劇が繰り返されていたというのに、実際は誰の身体にも宿っていなかったのだ。

 ロゼッタは震える手で杖を受け取る。

 金色に輝く杖は先端に大きな珊瑚色の石がついている。これまでに見たこともないような繊細で美しい意匠が凝らされた杖は、それ自体が神聖で触れるのも恐れ多い。それにローゼの言う通り杖はずっしりと重く、物質的な重さだけではなく、女神の神聖な力を感じて、触れると身体の中にその神秘的な力が流れ込んできているような気がした。

「これでダンテを助けられる?」
「ええ、闇を消すように願えばきっと助けられるわよ」

 ローゼは両手でロゼッタの頬を包み込んだ。彼女からは優しい薔薇の香りがする。どこかで嗅いだことのあるこの香りを吸い込むと、なぜか泣きたくなった。鼻の奥がツンとして、胸が切なくてしかたがないのだ。

 そんな顔のロゼッタを見て、ローゼもまた、涙をこらえるように眉を寄せた。

「ダンテを助けてあげて。そしてずっとそばにいてあげて欲しいの。あの人が抱える孤独を、どうか、取り払って」

 ローゼはそっとロゼッタの頬にキスをした。優しくて慈愛に満ちた熱が頬に触れる。

「あなたならきっとできるわ」

 心に寄り添うような優しい声を残してローゼの姿が消えると、辺りに風が巻き起こり、光に包まれた世界が消えていく。
 ロゼッタは力強く杖を握りしめた。

(お願い、闇を消してください。この国の人たちが、ダンテが、二度と闇に苦しめられないように)

 祈りを込めて杖を振ると白い世界は完全に消えて、代わりに元の世界が姿を現わした。杖から放たれる金色の光りが四方八方へと飛び散ると、ダンテを包囲していた黒い剣が溶けてゆく。

 その光景を目の当たりにした黒霧の魔女の顔つきが変わった。

「それは女神の秘宝……! 寄越しなさい!」

 黒霧の魔女の意識がロゼッタの持つ杖に逸れたのを認めたブルーノは、黒霧の魔女に雷魔法を放ち攻撃を仕掛ける。すぐに気づいた黒霧の魔女は攻撃を避けたが、するとブルーノはすかさず距離を詰めてナイフを突き立てた。

「ずっとこの時を待っていた。ローゼが受けた苦痛を、恐怖を、お前も味わえ」

 唸り声のような声でそう言い放つと、黒霧の魔女の胸に深々とナイフを刺した。ブルーノの水色の瞳は昏く冷たく、見つめた相手を凍らせるほどの凄みを帯びている。
 ロゼッタは初めて見るブルーノの表情に身震いした。いつも無表情だけど穏やかなブルーノがこんなにも怒りを露わにし、死の香りを漂わせている姿は別人のようにも見えた。

 しかし同時に、そんな彼は恐ろしいほど美しくもあった。
 だからロゼッタは、言葉を失ってただブルーノを見つめた。

 黒霧の魔女は激痛に苦しみ金切声を上げて叫んだが、やがてそれは不気味な笑い声へと変わってゆく。

「ああ、残念。この身体を手に入れるのは苦労したのに」

 真っ赤な唇は弧を描き、黒い靄を纏い始めた。

 かつて王都の路地に誘き出された時と同じだ。また逃げられてしまうとロゼッタが身構えたその時、ダンテが力を振り絞って立ち上がり、絵画に被せてあった布を取り払った。

「お客様、お帰りになる前にぜひとも本日の目玉商品を紹介させてください。最近仕入れた作品なのですが、きっとお客様のお気に召すはずです」

 こんな状況で何を呑気なことを、とロゼッタはダンテを睨みつけたが、ダンテは素知らぬ顔だ。

 布の下から顔を出したのは、一枚の風景画だ。片田舎にあるような素朴な小屋の室内のようで、温かな色味のカーテンが揺れている様が緻密に描かれている。仄かに光を帯びている為か、絵画は柔らかな空気を孕んでいる。

 黒霧の魔女の目はその絵に釘付けになり、顔からはすっかり笑みが消えた。まるで幽霊を見たかのような表情で、絵に見入っている。

「こちらはヴァスコ・ラ・トルレの下積み時代の作品、『ルドヴィカのいる部屋』です」
「ヴァスコ……?」
「ええ、あなたを深く愛していたヴァスコは晩年、この作品を蒐集家から戻して手直ししてから返した」

 ダンテは形の整った唇の両端を軽く持ち上げ、見る者が息も忘れてしまうほど美しい笑顔を黒霧の魔女に向けた。

「ポルカーリ工房の魔導士によると、この絵画には束縛の魔法が込められているようです。特定の人物を見つけると発動するように術式が組み込まれているのだとか。きっと彼は手直しと称してこの魔法を付与したんでしょうね」

 仄かに光を帯びていた絵はいっそう光を強める。 

「ルドヴィカ、あなたを閉じ込めるために、ヴァスコは魔法を施したんですよ。少女たちの血を啜るあなたが、これ以上悪い魔女にならないようにね。彼が残した手記にはそう書かれていましたよ。いやはや、手記を読むのには骨が折れました。なんせ気難しい蒐集家が持っていたので、見せてもらおうにも交渉に手間取ってしまいましてね」

 ダンテが言い終えるや否や、絵画から無数の白い手が伸びてきた。手は黒霧の魔女を標的にして追いかける。

「ああ、忌々しい!」

 黒霧の魔女の手が宙を斬ると身体から黒い靄が立ち上がり、幾重にも並ぶ座席の上を横切ってステージの反対側にある扉の隙間を潜り抜けて外へ逃げていく。その時、じゅっと何かが焼けるような音がしたかと思うと、黒い靄からつんざぐような悲鳴が上がった。

「熱い……身体が、燃える……おのれ、司祭を呼んだな?」

 黒い靄は会場の中に戻ってくる。あちこちに金色に光る炎が燃え上がっており、黒い靄を焼いてゆく。
 金色に光り闇を焼き払う聖なる力。これが聖属性の魔法なのだとロゼッタは直感した。

「呼ぶものか。あの変態が勝手に来て勝手に手を出して来たんだろう」

 ダンテの口調から、誰が来ているのかは想像がついた。どうやらリベリオの仕業だとわかっているようで、彼の顔を思い出したのか、小さく鼻で笑った。

 そうしている間にも絵画から伸びた白い手は黒い靄を覆い身動きを封じる。捕らえた獲物を逃がさないように覆うと、ゆっくりと絵画の中に引きずり込み始めた。
 
「おのれ……おのれ……、許さないぞ、男爵」

 爆ぜるような音とともに白い手の合間から黒い靄が飛び出す。靄はロゼッタに突進するように飛んできて、彼女の喉に巻きついた。

「餞別に呪いをやろう。お前の娘は成人を迎えた満月の夜に、一生愛を告げられないようになる。想いを伝えられない苦しみを味わえばいい」
「往生際が悪いな。大人しく絵の中に入れ」

 ダンテは舌打ちして火炎魔法で黒い靄を焼き払い、ロゼッタを抱き寄せる。退けられた黒い靄は白い手にまた捕まると、笑い声を上げながら絵画の中に引きずり込まれていった。
 黒い靄を――ルドヴィカを取り込んだ絵画は音を立てて地面に落ちて、そのまま光りを失う。
 絵画を覗くと、白い髪の女性が描き足されていた。その女性は机に伏せて、泣いているように見える。

「この絵は神殿に押しつけよう。闇にまみれた作品は誰の手に渡っても災いが起きるからな。女神様の御前が一番なはずだ」

 ダンテはそう言うと、ロゼッタを抱きしめたまま座席に座り、ぐったりと背もたれに身体を預けた。緊張の糸が切れて疲れが押し寄せてきたらしい。思い出したかのように痛みに呻く。

 会場の中は静かになった。
 先ほどまでの張り詰めていた空気も禍々しい気配もなく、安堵と、言いようもない達成感に身を震わせた3人がいるだけだ。

 疲労が押し寄せ力なく微笑むダンテを見てやっと、黒霧の魔女との戦いが終わったのをロゼッタも悟った。
 ダンテが生きて自分を抱きしめてくれている喜びを噛みしめるととめどなく涙が溢れて、彼のシャツを濡らす。

(女神様、大切な杖を貸してくださって、ありがとうございました)

 ロゼッタはダンテの腕の中で、女神に感謝の祈りを捧げた。
 
 静かに抱きしめ合う二人と、そんな彼らを見守るブルーノを、ステージの上にいる女神像が見守る。
 それはロゼッタのお披露目パーティーの翌日、ダンテがロゼッタに図録を見せながら教えてくれた作品で。

 あの頃よりも強い絆で結ばれた父子の頬を、どこからともなく吹き寄せた風がそっと撫でていった。