真夜中だというのにバルバート邸には明々と光が灯っており、使用人たちはみな起きて主人たちの帰りを待っている。
 すっかりと沈んだ空気が漂っているお屋敷の二階にあるロゼッタの寝室では、ナナがひとり、うな垂れて主人がいないベッドを見つめていた。

 いつもの夜ならここでスヤスヤと眠る小さな主人を見て幸福感に浸っていたのに、今はただ白いシーツが整然とかけられているだけの寂しい場所となっていて。

「私、女神様にお祈りしてきます!」

 いてもたってもいられないナナはラヴィに嘘をつくと、勝手口から出てゴンドラに乗り込み、船頭に『ギャラリー・バルバート』に行くように言った。
 
 オークションハウスの前にはすでに騎士や野次馬が集まっており、みな窓や扉から中の様子を窺おうとして、ディルーナ王国騎士団の騎士たちに止められていた。そんな人ごみの中に、見慣れた少年がいた。

(ロランディ家のジラルド様だ)

 ロゼッタを訪ねてくることがあったから覚えている。子どもとは思えないほど落ち着いていて、貴族はやはり自分たちとは本質が違う生き物なのかと感心したほどだ。
 そんな絵に描いたような優等生のジラルドがオークションハウスの中に入ろうとして、ロランディ家の騎士に引き止められている。

「坊ちゃん、残念ですが我々は中に入れません」
「なぜだ?! ロゼッタ嬢とジャンたちは入っていっていったではないか!」
「お忘れになってはいけません。坊ちゃんは次期当主なのです。ご自分が優先するべきことをなさってください」
「……っ」

 ジラルドは歯噛みして剣を見つめる。

「どうして僕は、無力な子どもなんだろう」

 ぽつりとつぶやいた言葉にナナは胸が痛み、下を向いてしまった。

(私なんて、大人でも無力だわ)

 ただのメイド。
 身の回りのお世話はできても、いざという時は何もできない。主人を守る力を持ち合わせていない。

 それでも、あの小さく愛らしい主人には幸せでいてほしい。そうするんだと、初めて会ったあの夜に決意したのだ。

 ナナはそのまま踵を返してゴンドラに戻ると、神殿に向かった。

 夜の神殿は人がまばらで、しんとしている。

 ゴンドラを降りたナナは走って主聖堂へと向かった。慌てるあまりめちゃくちゃに走っていたせいで、躓いてバランスを崩してしまった。

(こんな時に転ぶなんて……!)

 地面にぶつかると思って目を閉じたが、誰かが身体を支えてくれて、ことなきを得る。
 恐るおそる目を開けると、蜂蜜のような金色の髪と瞳を持つ、見目麗しい司祭が慈悲深い微笑みを浮かべて彼女を見ている。

(うわっ、リベリオ大司祭様だ! いつ見ても綺麗な人!)

 美しい顔を間近で見て驚いてしまったナナは思わず飛びのいた。

「あ、ありがとうございました! 急ぎのお祈りがありますので、失礼いたします」
「お待ちなさい。今日ここであなたを躓かせたのも女神様からの天啓かもしれませんね。ここに来た理由を教えていただけますか?」
「……お嬢様を、私のお仕えしているお嬢様を助けて欲しいんです」

 ロゼッタのことを考えただけで、ナナの眼には涙が浮かんできた。
 リベリオはハンカチを取り出して、「使いなさい」と言ってナナに手渡す。そして、こわごわと受け取って涙を拭くナナの様子をじっと見つめた。

 まるで何かを見透かそうとしているその眼差しに、ナナは緊張感を覚える。

「あなたはどこの家に仕えているのですか?」
「バルバート家です」
「……ふむ。そうか、今日でしたか。神殿にいると外界のことはどうも疎くて困ります」

 リベリオは何か思い出したかのような顔をしてそう言うと、聖騎士たちを引き連れて、足早にその場を去った。
 大司祭と聖騎士たちが大急ぎて神殿を出て行くものだから周りの参拝者や司祭たちは騒然とする。

「な、なんだったのかしら?」

 そんな中、ナナは呆気にとられて彼らの背中を見送った。


   ◇


 主聖堂に着いたナナは、ステンドグラスを見上げた。
 少女がガラティアソスを持つ絵を見ると憂鬱になる。

 あの杖さえなければ、ナナの小さな主人は悲しい思いをすることなんてなかった。しかし、あの杖のおかげで自分は彼女と出会えた。

(皮肉だわ。お嬢様の不幸のおかげで出会えただなんて)

 初めてロゼッタと出会ったのは、ロゼッタがバルバート邸に来た日の事。眠ってしまっていたロゼッタを、ラヴィと一緒に身体を拭いてあげて着替えさせた。
 花の妖精のように美しい少女の手には痛々しい痣があり、青くなった皮膚を見るとズキンと胸が痛くなったのを覚えている。

 そのうえロゼッタは、ナナたちが寝室を整えている間中ずっと、うなされて苦しそうに呻いていた。

「……私は何もしてないわ。私は、呪われた子じゃない……」

 少女の口から出てきた言葉を聞いたナナとラヴィは顔を見合わせた。

「お嬢様はきっと辛い思いをされてきたんでしょうね」
「まだこんなに小さいのに、酷いことをされて怖い思いをしたなんて……あんまりです」

 故郷にいる妹と同じくらいの年の、幼い少女なのに。

 その時、ナナは心に誓った。
 このお方の笑顔は私が守る、と。

 そう決めていたのに、運命は残酷にもロゼッタに更なる悲劇を与えようとしている。もしくは、命を奪おうとしているのかもしれない。

「お嬢様、どうか無事でいてください」

 ナナはステンドグラスに描かれた女神を見つめて、小さな主人の無事を祈った。