黒霧の魔女は溜息をついた。
 深い深い溜息には苛立ちと軽蔑がこめられていて。

 『ギャラリー・バルバート』の広い会場は彼女の溜息を呑み込んで音を消してしまうが、その感情は残されたまま。不穏な空気の一部となった。

「魔術師でもないのに魔女に立ち向かおうだなんていい度胸ね」

 怒りに任せて足元に落ちている短剣を蹴り飛ばし、ステージの上から落とす。
 金色の短剣は輝きを纏いながら暗い客席へと消えていった。カシャンと金属が地面にぶつかる音がして、また静かになる。

「それも、魔物を討つためにドワーフが鍛錬した剣で刺し殺せると思っていたとはね。淑女を魔物に見立てるのは失礼ではなくて?」

 そのことがよほど気に障ったらしく、微笑みを一瞬にして消してダンテを睨みつけた。

 ドワーフが朝日の光りを集めて作ったとされる聖なる剣は、闇の力を宿す魔物に突き立てると物を蒸発させられると言い伝えられている伝説の秘宝の一つ。
 ソレチト伯爵の蒐集品から拝借したダンテは黒霧の魔女の隙をついたが、彼女の魔法に跳ね返されてしまったのだ。

「闇に魂を売ったあなたにはぴったりの武器でしょう?」
「いいえ、私は心も魂も恋人に捧げてしまったわ。闇に売る余地もなく、すべて。だから魔物じゃないわ。私は、魔女よ」

 それでもダンテの脳裏には、ある言い伝えの一文が過っていた。

 ”魔女も堕ちれば魔物同然だ。”

 ディルーナ王国ではそのように魔女への差別意識が強い街がある。北の最果ての地にあるその街に残る言い伝えによると、昔、森の中に住む魔女が若い娘の血を漁り始め、人々は力を合わせて魔女を追放したそうだ。

 その追放された魔女こそが、ルドヴィカ。

 しかし件の言い伝えの魔女が今、泣きそうな表情で俯き、悔しさに震えて拳を握っている。

 全ての禍の魔女。
 忌まわしき存在。
 具現された悪。

 これまで見てきた黒霧の魔女を表現する言葉とは違って一人の人間のように傷ついている姿に、ダンテは一瞬言葉を失った。

 しかし、と彼は自分に言い聞かせる。

「あなたが闇に供物を捧げてきた事実は捻じ曲げようがありませんよ。幾人もの罪のない人たちがあなたのせいで犠牲になったんですから」

 最愛の人を殺され、また大切な存在を奪われようとしているダンテにとって、同情なんてできない。

「あなたに、私の何がわかるのよ?」

 地を這うような低い声を絞り出して、黒霧の魔女は顔を上げる。
 怒りに満ちた瞳は赤黒く不気味な光を放ち始めた。
 

 ◇


 かつて黒霧の魔女にはルドヴィカという名前があった。

 ディルーナ王国の最北にある森の中で生まれ育ち、薬を作ったり医者代わりに病を癒すのを生業としており、近くの街に住む人々に頼りにされている、善良な魔女だった。

 しかし同時に、一線を引かれる存在でもあった。

 ルドヴィカは真っ白い髪を持ち、青白い肌も相まって生気のある容姿ではなかったのだ。その上、白い睫毛に縁取られた目は赤い瞳がおさまっており、血を思わせるような色だったという。

 人外を思わせる相貌は、畏怖の対象にもなり得た。

 しかしそんなルドヴィカも、人並みに恋をした。相手は近くの街に住む青年のイザイアで、年も彼女に近い美丈夫。人当たりがよくて気さくで、ルドヴィカはそんな彼と言葉を交わすうちに惹かれて、やがて二人は恋人になった。

 彼が遊びに来る日は化粧をしてみたり、街に行くついでに彼の家に行って手作りのお菓子を届けて見たり。恋人を一途に愛するルドヴィカには今のような残虐さはなく、むしろお人好しで裏表のない性格で。

 そんな彼女の元に足繁く通う画家の姿があった。

 彼の名前はヴァスコ。幼馴染のヴァスコは病弱で、幼い頃からルドヴィカや母親が作る薬にお世話になっており、数少ない友人のうちの1人だ。そんな彼は商会の事務の仕事をしながら絵を描き、二足の草鞋で生計を立てている、いわゆる兼業画家だった。

「ルドヴィカ、最近はどう?」
「どうって、いつもと変わりなく過ごしてるわよ」
「その……なにか辛いことがあったらいつでも僕を呼んでくれ」

 そう話すヴァスコは耳まで赤く染まっている。ルドヴィカは彼の好意に気づいていた。それでも自分にはイザイアがいるから気づかないふりをしていて、それが心苦しく、ヴァスコとは距離を置くようになっていた。あくまで幼馴染の常連客として接していて、それ以上の関係を望んでいないのだ。

「気持ちは嬉しいけど、私はイザイアと支え合っていきたいの」
「……っわかった」

 ヴァスコは肩を落として立ち上がると、静かにルドヴィカの住居兼お店から出て行った。

「ごめんなさい。でも、あなたのためでもあるから」

 自分の気持ちはヴァスコに向くことはない。なぜならイザイアを心から愛しているから。愛するイザイアを裏切るようなことは絶対にしたくない。

 ルドヴィカは、イザイアを溺愛していた。
 初めて恋をした人で、常に彼のことを想い、彼を中心にして生きていた。

 しかし、イザイアはそうではなかった。
 彼がルドヴィカの恋人になったのは単なる好奇心で、本心から愛しているわけではなかった。名のある魔女を恋人にしたという話題が欲しかっただけで、生涯を共にしようとは考えてもいない。
 それどころか上っ面の優しさに騙されたルドヴィカのことを馬鹿にして、酒場で酒の肴にしていることなど、お人好しの彼女は知らず。

 だからこそヴァスコは、ルドヴィカとイザイアを別れさせて、助けたかった。
 幼い頃から恋焦がれた憧れの人の名誉を、守りたかったのだ。

「ルドヴィカ、なにがあっても僕は君を愛しているから。君の幸せだけを願っているんだ。それだけは覚えてて」

 なす術もなく見守るしか手段が残されていないヴァスコは、森の中にぽつんと立つ小屋に向かって、そっと呟いた。

 そんな願いも虚しく、ついに悲劇は起きた。

 最近はめっきり遊びに来なくなったイザイアの顔を見たくなり、街に出てお菓子を届けに行ったルドヴィカは、イザイアが服飾店の看板娘とじゃれ合っているのを目撃してしまった。

 抱き合ったりキスし合ったりして恋人のようにしている二人を見て、さあっと血の気が引く。

 見間違いかもしれない。
 もしくは人違いか。

 心臓が早鐘を鳴らし始めて、息がつまりそうになりながらも二人に近づいた。

「イザイア……?」

 呼びかけると、彼は振り向いた。まったく悪びれもせず、腕の中にいる少女から離れようともしない。
 ルドヴィカの胸の中に、ドロリとした感情が流れ込んで、広がっていく。

「ああ、ルドヴィカ。何しに来たんだ?」
「顔を見に来たのよ。最近、全然来てくれなかったんだもの」

 早くその腕を離して欲しい。
 胸に渦巻き始めた禍々しい気持ちを抑えて、震える声で訴える。

「ねえ、恋人がいるのに他の子に抱きついたりキスするのはよくないわ」
「まだ恋人だと思っていたのか?」

 突き放すような返事に、ルドヴィカは目を見張った。

 まだ恋人だと思っていたのか?
 イザイアにとってはもう違うの?
 なんで?
 どうして?

「なんで……?」

 口の中がカラカラになった彼女の声は消えそうだった。

「考えてみろよ。老人みたいな髪の色をした、バケモノみたいな奴と恋人ごっこなんてしたくないだろ?」

 ズキンと、心臓を穿たれるような痛みが走る。
 今まで同じようなことを誰に言われても耐えられたけど、この世で最も大切な人から放たれるとなによりも鋭く、冷たく刺さる。

 ドロリとした感情が、穿たれれできた穴から心の中に入り込んでくる。

「おまけに年々老人らしさが増して、見てられなかったんだよ。そういうことだから、もう関わらないでくれ」
「待って!」

 腕に縋りつこうとするルドヴィカをイザイアはにべもなく振り払う。地面に手をついて顔を上げると、イザイアは看板娘の背に手を回して微笑んでいる。
 若くまだあどけなさが残る彼女を見つめる瞳は優しくて、かつて自分に向けてくれているものだった。

 それが、永遠に自分の物だと思っていたのに。

「いやだ。イザイア、帰ってきて」

 彼だけが生きる理由だった。
 彼が全てだった。

 もう一度戻って来てくれるなら、何だってする。

「そうよ、手に入れたらいいんだわ」

 イザイアが求める物を手にしたら、きっと戻って来てくれるはず。
 永遠の若さを。
 永遠の美しさを。
 
 ルドヴィカは森の中にある小屋に帰ると、短剣を握って外に出た。
 
 その日から、後に”鮮血の悪夢”と名付けられる忌まわしい事件が起き、数々の少女を手にかけて生き血を求めたルドヴィカは、森を追放された。


 ◇


 ルドヴィカは今も、裏切りの恋人に囚われている。
 若さと美しさを求めて人の身体を奪って器とし、老えば新しい器を探して取り憑く。

 そうやってこの世に根を下ろして、終わらない苦しみの中を生きてきた。
 もう一度イザイアに愛してもらうために。

 彼への憎しみと愛情を持て余すあまり、死ぬに死にきれない不幸な魂となってしまった。

 繰り返す老いに恐れる彼女はついに、女神の秘宝の存在を知って、手に入れようと誓った。

 永遠の若さと美しさを手に入れ、死んだイザイアを蘇らせれば、今度こそ自分は幸せになれると、信じて。

 だから彼女は今日も生贄を追いかける。