バルバート邸が宵闇に包まれたころ、黒霧の魔女の宣言通り、招待状がロゼッタの手元に届いていた。
 真っ黒な招待状は暗闇に紛れて現れて、眠りにつこうとしていたロゼッタの前に音もなく現れ、落ちてきたのだった。

 ロゼッタはいきなり現れたカードをつまみ上げてみる。

「これは、何かしら?」

 暗い部屋の中では読むことができず、扉の外にいるであろうブルーノに声をかけて灯りをつけてもらった。

「……」

 カードから異様な雰囲気を感じ取ったブルーノは、やんわりとロゼッタからカードを取り上げた。
 ブルーノが手にしたカードの裏面に描かれているのは小槌と鎌を持つ骸骨の紋章。すなわち、闇オークションハウス『黒霧の魔女の家』の象徴だ。

 ロゼッタはその紋章の意味なんて分からないが、こんな真夜中に突然現れるのだから、きっとただならない人物から寄越された手紙だろうということはなんとなく感じ取っている。

 だからなおのこと、手紙をブルーノが取り上げて、疑念は確信へと変わった。

「黒霧の魔女からの手紙ですわね?」
「……」
「ブルーノ、返しなさい」
「なりません」

 そのままカードを胸ポケットに入れ、頑なにロゼッタに渡そうとしない。
 ますます不吉な予兆を感じ取ったロゼッタは、寝かしつけようとするブルーノの手を払いのけて、強風を吹き荒らした。

「”吹き荒れろ”!」

 ロゼッタが呪文を唱えれば室内に風が巻き起こり、ガシャンと音を立てて花瓶が倒れ、窓も扉も大きな音を立てて開け放たれる。部屋中が引っ掻き回されたような惨状になり、ブルーノは愕然とその様子を眺めた。

 彼の知る限りロゼッタは、力で相手を屈したりはしなくて、理性的な手段をとる主人だ。
 たとえ相手が意地悪な大人であったとしても、癇癪を爆発させることなく、背筋をしゃんと伸ばして言い負かす、そんな子どもなのだ。

 そのロゼッタが今、魔法を意図的に暴発させて怒りを露わにした。今まで見せたことのない強い怒りに、ブルーノは気圧されてしまった。

「お嬢様……?」
「ブルーノ、わたくしは怒っていてよ。主人に届いた手紙を隠すとはどういうつもりなの?」

 窓から入り込んできた風が、床に落ちてしまったカードを舞い上げてロゼッタに届ける。

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 ロゼッタ・バルバート様

 今宵、『ギャラリー・バルバート』にて最高の舞台をあなたに用意しました。
 ぜひ朝日が昇るまでにお越しいただき、バルバート男爵と感動のお別れを演出してくださいませ。

 男爵と共にお待ちしております。

 黒霧の魔女
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 読み上げたロゼッタの心臓が、早鐘を打ち始めた。
 何度も読み直して、絶望した表情で、ブルーノを見上げる。

「どういうことなの?」
「……」

 ダンテが帰ってきていない今、彼が黒霧の魔女と一緒にいる可能性は高い。
 この招待状が嘘であって欲しいと、そう願って、ロゼッタは震える唇を動かした。

「ダンテは、いつ帰ってきますの?」
「……」

 沈黙がさらに悪い事態を連想させて、さあっと体温が引いていく。
 寒さも恐怖も合わさって、ロゼッタの顔はみるみるうちに真っ蒼になっていった。

(きっとダンテは、知っていたんだわ)

 ずっと引っかかっていた。
 早朝に顔を見に来たダンテも、いきなり「パパと呼んで欲しい」だなんて言い始めたダンテも、いつもと様子が違うかったから。

(もっと早く、気づけていたら……)

 思考はどんどんと悪い方へと引っ張られていく。

 ダンテが、いなくなってしまう。
 考えたくもない未来を想像してしまい、ロゼッタの視界は滲んでゆく。さらに追い打ちをかけるように今朝のやり取りが脳裏をよぎって、後悔のあまり目には涙が浮かぶ。

 あの時に自分が気づいていれば、もし、時間が戻るなら、やり直したい。ダンテを外に出さないように、我儘を言って止められたかもしれないのに。

 時間よ、戻れ。
 何度も心の中でそう呟いても、もう戻ることはない。

 耐えがたい絶望と後悔に打ちのめされて床に座り込みそうになるロゼッタを、ブルーノが支えた。

 ロゼッタが魔法で部屋中を引っ掻き回した音は外にも聞こえており、大勢の足音が聞こえてくると、ラヴィたち使用人や、ロランディ家の紋章をつけた騎士たちが部屋の中に入ってきた。

「お嬢様、無事ですか?!」
「ロゼッタ嬢、何事ですか!」

 駆け寄ってきた者たちは真っ蒼になっており、その様子からただならぬ事態が起こっているのだと悟った。

「ねえ、ダンテは帰って来ていませんの?」
「ええ、本日はお仕事で遅くなると伺っております」

 カストが丁寧に答えるが、ロゼッタはさらに眦を吊り上げる。
 少女は大人たちを前にしてしゃんと背筋を伸ばす。顎を引いて、静かに口を開いた。

「本当のことを言いなさい。ダンテはあなたたちに何を言いつけましたの?」

 鈴を転がすような声はいつもの少女らしさがなく、バルバート家の主としての威厳が込められている。

 ロゼッタが口にしたのは”お願い”ではなく、”命令”だ。

 カストは観念したように胸を手に当てると、弱り切った声で答えた。

「黒霧の魔女と決着をつけると、伺っております。お嬢様をお屋敷の外に出さないよう仰せつかいました」
「やっぱりそうだったのね。今からダンテの元に行くから支度して」
「旦那様の言いつけを破ってはいけません。騎士団に任せましょう」
「嫌よっ! ダンテが死ぬならわたくしが殺されるわ! 黒霧の魔女は、わたくしを殺そうとしているんですもの!」

 ロゼッタの声が室内に響く。

「本当にこのままでいいと思っていますの? ダンテが帰ってこないなんて、わたくしは嫌ですわ!」

 大人たちはただただ黙って、少女の叫びを聞いている。
 ラヴィとカストは悲痛な面持ちで、ナナは今にも泣き出しそうな顔で。

「……」

 ブルーノはロゼッタの背中に手を回す。止められるかもしれないと、危機を感じたロゼッタは彼の胸を押し返して逃げようとする。ブルーノはロゼッタを抱きとめたまま、そっと名前を呼んだ。

「ロゼッタ様」

 腕の中で暴れていたロゼッタの動きがピタリと止まった。
 ブルーノには今まで一度も名前を呼ばれたことがなくて、彼の声が自分の名前を言うと不思議な感覚がして、思わず水色の瞳を見つめる。

「どうか私に命じてください。黒霧の魔女から旦那様を助けるように指示をいただけば、私はあなたのために動きます。私は初めて会ったあの日に、あなたに全てを捧げると誓いました。心もこの身も、血の一滴に至るまで全てロゼッタ様のものです。命がけで挑みましょう」
「嫌ですわ。ブルーノが死ぬのも許さないもの」
「では、そのように命じてください」

 ブルーノはロゼッタから身体を離すと、跪いて首を垂れる。
 その姿はさながら、王女に仕える騎士のようで、ラヴィたちは息をのんで小さな淑女と護衛を見守った。

「ブルーノ、命令ですわよ。ダンテを助けに行くからついて来なさい。みんなで無事に帰ってこれるように、戦うのよ」
「我が主の仰せのままに」

 銀色の髪がさらりと揺れて月明かりに照らされる姿は神秘的で美しく、そんな怜悧な美貌を持つ彼は人ではない存在のようにも見えた。

 そんな彼ならきっと倒せるかもしれない、と幼い少女は希望を抱く。

「ロゼッタ様、我儘を言ってもよろしいでしょうか?」
「どうしたの?」
「祝福が、欲しいのです」

 彼に上目遣いで見つめられると断れないが、それでも彼女はわざとらしく片眉を上げる。

「そんなものも必要ないくらい強いくせに」

 そう言いながらもブルーノの頬にキスする。
 小さな唇を押し当てながら、彼の無事と勝利を願った。

 長い夜はまだまだ続く。

 ロゼッタはブルーノと数名のロランディ家の騎士を引き連れて、『ギャラリー・バルバート』を目指してゴンドラに乗り込んだ。