今日はダンテの様子がおかしい。

 ロゼッタは玄関ホールでお見送りをしながら、彼の様子を窺う。

 というのも、早朝に物音がして目を覚ますとダンテがベッドに腰を下ろしていて、じいっと顔を覗き込んできたのだ。

「ダンテ?」

 ロゼッタが寝惚けまなこをこすりながら話しかけると。

「ああ、おはよう」

 そう言っただけで、すぐに部屋を出てしまった。

(どうしたのかしら? 怖い夢でも見たから眠れなくなって、わたくしの部屋に来たの?)

 考えてみて、まさか、と頭を振る。
 ダンテに限ってそんなことはない。

 いつも偉そうにしているダンテが怯えている姿なんて、想像もできなかった。

「じゃあな、行ってくる」
「いってらっしゃい」

 ダンテはロゼッタを抱き上げると、彼女の頬にキスした。

「帰りが遅くなるから先に寝ておけ」
「わたくしが寝る時間よりも遅くなるんですの? どうして?」
「大切な仕事があるからな」

 どんな仕事なのかはわからないが、きっとその言葉の通りなのだろう。

 そうとはいえ、最近はロゼッタと一緒にいられるようにしてくれていたから、ダンテをお迎えできずに眠るだなんて久しぶりだ。
 仕事から帰ってきた彼と居間《パーラー》で話してから寝るのが習慣になっていたせいか、がっくりと肩を落としてしまう。

 寂しいと、浮かんできた感情に気づいたロゼッタは慌てて心の隅に押しやって、隠す。
 おませさんな少女は、ダンテや周りの人たちに子どもだと思われたくない一心で、甘えたい気持ちを知られないようにした。
 
「怖い夢を見たらブルーノを呼べ」
「大丈夫ですわ。ブルーノがいつもそばにいてくれるから、怖い夢を見てもどうってことありませんわ」

 もう子どもじゃないと伝えたいロゼッタだが、ダンテは彼女の言葉を別の意味にとらえたようで、拗ねた声になった。

「やっぱり、ブルーノは呼ぶな。部屋に入れるなよ?」
「どっちですの? わがままですわね」

 ロゼッタが睨めば、ダンテは微笑む。

「なあ、ロゼッタ。お願いがあるんだ」
「なんですの?」
「パパって呼んでくれ」
「嫌ですわ」

 急にどうしたんだと、そう思いつつも間髪を入れずバッサリと断った。
 そもそもダンテが呼ぶなと言ってきたというのに、冗談でそんなお願いをしてくるのなら、許しがたいものがある。

「ケチだな。ちょっとくらいそう呼んでくれたっていいだろ?」
「ダンテがそう呼ぶなって言いましたわ!」
「……そうだな。すまない」

 口を尖らせる少女の非難めいた視線を受けとめたダンテは、後悔を滲ませた声で呟いた。

 ロゼッタはちらと周りの使用人たちを見る。

(おかしいわ。どうしてみんな、何も言わないの?)

 いつもならダンテがロゼッタをからかっていると、ラヴィかカストが、「お嬢様を困らせてないで早くゴンドラに乗ってください」と急かすはずなのに、今日は黙って見守るだけで。

 それでも時計を見ると、『ギャラリー・バルバート』の始業時刻が迫っている。
 
 誰も彼に言わないのなら、自分がそれとなく送り出そう。
 ダンテが到着するのが遅くなれば『ギャラリー・バルバート』の従業員たちの仕事が滞ってしまうのだから。

 ロゼッタは伸びあがってダンテの頬にそっと唇を押し当てた。

「ダンテ、お仕事頑張ってね」
「もちろんだ」

 怒られて落ち込んでいたダンテは、ロゼッタからのお見送りの挨拶に顔を綻ばせると、彼女の瞼にキスしてもう一度、じいっと見つめてから、お屋敷を出ていった。


 ◇


 その日の夜、『ギャラリー・バルバート』のオークションは盛況のまま終わった。

 閉館後、いつもなら和やかに明日の打ち合わせをしているところだが、今日は片づけを終えるや否や、従業員たちは次々とダンテに外に追い出され、最後まで居残ろうとしていた従業員――トビアも、粘った末に外に出されてしまう。

 今宵は綺麗な丸い満月が空に浮かんでいる。

 偽の怪盗ローゼが現れる現場に従業員がいれば何をされるかわからない。彼女から守るためにも、ダンテは早々に帰らせた。

 従業員たちは外に出ても帰らずに立ち尽くしており、トビアに至っては未だに扉にはりついていて、中に入ろうとしている。

「支配人! 開けてください! おひとりでは危険です!」
「危険だってわかってるのにお前を残すわけにはいかねぇんだよ」
「あなたに何かあったら、ロゼッタ嬢はどうするんですか?」
「その時はよろしく頼んだぞ、トビア」

 内側から施錠したダンテは、トビアが扉を破らんばかりに力を込めて叩く音を背にして、保管室に向かう。

 整然と美術品が並ぶその部屋は静寂に包まれ、天窓から見える満月が、宵闇に輝く。

 ダンテは手袋をはめて、黒い布が掛けられた絵画を持ち上げると。

「ヴァスコ・ラ・トルレ、あなたの絵が役割を果たす時が来ましたよ」

 かつて生きていた巨匠の名前を口にして、不敵に笑った。
 すると、ダンテしかいない室内に、異質な気配が降り立つ。姿かたちの見えない存在が、確かに息づいて彼を見守っているような、そんな空気になった。

 持ち上げられた絵画は魔法がかけられているようで、布越しに光を放ち、生き物の鼓動のように光を点減させている。

「魔法が発動したのか」

 ダンテはその魔法絵画を持って、会場に入った。
 数時間前までは客で埋め尽くされていた広い会場は今は寂然としていて真っ暗で、彼がパチンと指を鳴らすと瞬く間に明りが灯って誰もいない会場を照らす。

「偽物の怪盗ローゼとやら、あまり待たせてくれるなよ」

 ステージの上に魔法絵画を置いたダンテが最前列の席にどっかりと腰を下ろすと、まるで彼が座るのを待っていたかのように、クスクスと笑う声が辺りにこだまする。

「あらあらあら、せっかちな男は嫌われるわよ?」

 黒い霧が現れるとともに、1人の女がステージの上に姿を現わした。
 身に纏う漆黒のローブはいかにも魔女らしいもので、そのフードを脱ぐと亜麻色の髪が肩に落ちる。
 若い女性だ。亜麻色の髪が優しそうな印象を与えるが、その髪を見ると、かつてローゼが変装していた姿を思い出して、舌打ちしたくなった。

「黒霧の魔女、今宵も美しい女性の仮面をつけられていますね。一体どうやって入手しているのやら」

 アンドレイニ候爵夫人の身柄が神殿に保護されている以上、違う姿で現れるとは予想していたが、いざ予想通り若く美しい女性の姿で現れると、不気味さに中てられそうになる。

 もしも、最悪な事態が起こってロゼッタがこの魔女に捕まっていたら、どうなっていたんだろうか?

 ぞっとする気持ちを抑えて、ステージの上にいる因縁の相手を、鷹揚に見上げる。

「疑っているの? これが本当の私の姿よ」
「言い方を変えた方が良いようですね。ルドヴィカ、他人の身体を奪うのはもう止しませんか?」

 目の前の女性が彼女の本当の姿ではないことくらい、わかっていた。
 ダンテは黒霧の魔女からロゼッタを守るために、持ちうる限りの情報網を使って彼女を調べ上げており、本来の姿がどんなものであるのか、とっくに掴んでいる。

 大陸の北の端にある常冬の森に住む魔女、ルドヴィカは、真っ白い髪と血のように赤い瞳を持っていたとされている。
 ディルーナ王国の建国以前から存在するとされる名の知れた魔女の一族で、代々、薬を作っては近くの街に卸していた。

 しかしルドヴィカを最後に、その系譜は途絶えている。
 不老に固執した彼女が若い女性の血を求めて以来、森を追い出されたからだ。

「よくぞその名前まで辿り着いたわね。腹立たしいわね、思い出したくもない名前でわざわざ呼んでくるなんて。あなたってどうしてこんなにも、私の神経を逆なでてくるのかしら?」

 恨み言を並べ立てているが愉しそうに口元を歪ませる姿は、彼女が内に秘めている嗜虐心を見え隠れさせている。

 少しでも隙や弱さを見せれば、すぐにでも喰らいついてきそうだ。

 ダンテはポケットの中に手を入れて、ローゼが残していったイヤリングに触れながら方眉を持ち上げる。

「思い当たることがありますでしょう?」
「私の気を引こうとしているのかしら?」
「幸せなお方ですね」

 黒霧の魔女の冗談めいた返答に、カッと怒りが沸き起こる。そのまま体内の魔力と呼応して、いまにでも辺り一帯を燃え尽くしてしまいそうだ。
 それでも、ダンテはあくまで紳士然とした態度で黒霧の魔女に向き合う。

「私は愛する人に代わって復讐するためと、娘を守るためにあなたを追っていただけです」
「いやね、冗談にとりあってくれないなんて、花の顔の男爵も噂ほどいい男ではないのね」

 黒霧の魔女が大げさに肩をすくめる。
 
「その大切な娘のロゼッタ嬢を頂戴しに来たんだけど、まだ来ていないのね」
「当り前です。危ないとわかっていて連れてくるつもりはありません」

 予告状を受け取ったその時から、ロゼッタを狙って呼び出していることくらいわかりきっていた。

 だから今日は仕事場に連れてこなかったし、エルヴィーラに頼み込んでバルバート邸にロランディ家の騎士を置かせてもらっている。

 今のバルバート邸はここより何十倍も何百倍も安全だ。
 絶対にその盾の中から彼女を外に出してはならない、と使用人たちに指示を出している。
 カストとラヴィには黒霧の魔女に会うことを伝えており、2人とも蒼白になってダンテの話を聞いていた。
 黒霧の魔女に会うのを反対されたりもしたが、必ず無事で帰ってくるからと説き伏せて、今日を迎えた。

 反対してきたときの2人の表情が、追い出した時のトビアの声が、思い出される。

(今日だけじゃない。みんな、俺のことを心配してくれていた。ずっと、傍で見守ってくれていたというのに)

 今さらながらに、彼らの気持ちに気づいたダンテは、自嘲気味に笑った。

 使用人たちも、従業員たちも、若くして当主を引き継いだダンテについて来てくれた。それなのにダンテは、自分は故人たちに取り残されたと、孤独に浸ってしまっていた。

(こんな時に思い知るだなんて、女神様も残酷なことをしてくれる)

 黒霧の魔女に殺されるかもしれない。いや、高い確率で、殺されるだろう。
 今日が命日になるかもしれないと、ダンテ自身、心のどこかでそう予期していて。

(心残りになって、死にきれないじゃねぇか)

 それでも、まざまざと殺されるつもりはなかった。
 明日にはロゼッタにつきまとう脅威が消えるように、今宵、何としてでも決着をつけるつもりで、備えてきたのだから。

「あの子はここに来るわよ。招待状を送ったもの、きっと喜んでこっちに向かっているわ」
「いいえ、きっとお屋敷で夢でも見ていますよ。良い子はとっくに寝る時間ですからね」

 どうか、その通りであって欲しい。

 ”招待状”がどのような物であるのか確かめる術もないダンテは、ロゼッタの無事を女神に祈った。