怪盗ローゼは、ディルーナ王国第一王女を黒霧の魔女から守るために、メイドや侍女たちが用意した存在で、そのことを知る人物は、もうこの世にはいない。

 全ての始まりは、あるメイドの一言だった。

「ジルダ様、今日はとっておきのお話を仕入れてきましたよ」
「嬉しい! カレンのお話をずっと楽しみにしていたのよ!」

 ジルダ――ローゼは、生まれた時から王宮の外に出たことがなかった。
 珊瑚色の瞳を持つ彼女が黒霧の魔女に襲われないように、王宮の奥にある王女宮に隠されて育ったのだ。

 そんな彼女は外の世界に憧れており、メイドのカレンが聞かせてくれる王都の話をいつも楽しみにしていた。

 カレンはローゼよりも年上で、明るいカレンのことを姉のように慕っていた。

「今日は王都で話題になった怪盗のお話をしますね」
「怪盗?」

 きょとんと首を傾げる彼女の足元では、銀色の美しい毛を輝かせた大きな犬が座っている。
 ブルーノと呼ばれるその犬は利口そうで、ローゼと一緒にカレンの話を聞いている。

「ええ、美術品や宝石を盗む人を怪盗と言うんです」
「あら、そんな悪いことをしている人がいるのね」

 ローゼが怪盗を知らないのは、与えてもらった本の中に怪盗について書かれているものがなかったためだ。
 物を盗む職業をわざわざ知る必要はないだろうと、王女宮の図書館には、怪盗について書かれている本は置かれていなかった。

「いいえ、その怪盗は、悪い商人が奪った宝石を持ち主の代わりに取り返してあげたり、お金がない人たちのために盗んだ宝石を売ってお金を分けてあげているんです」
「まあ! わたしよりも遥かに民のために働いているのね」

 ローゼは怪盗を羨ましく思った。

 王女として教育を受けてきた彼女は、王族の義務を果たせず王女宮で大切に守られていることに焦りを募らせていた。
 彼女の生活といえば、朝起きて勉強をして、ダンスの稽古やお茶をして、穏やかに過ごして終わる。
 なに不自由なく過ごしている時間が、彼女をの罪悪感を増長させた。

 王女として民の役に立ちたい。
 その気持ちは日に日に大きくなり、国王に外出許可を強請るようになるほどだった。

「私も民のために何かできないかしら?」

 溜息をつくローゼに、カレンはこそっと耳打ちした。

「ジルダ様ならできますわ。私たちもお手伝いしますので、怪盗ごっこをやってみましょう。こっそりお城を抜け出したら、誰にも止められませんから」
「そんなこと、できるの?」

 ローゼを守るために、王女宮は厳重な警備体制を敷かれている。
 訪れるのはもちろん、出るのだってそう簡単ではないはず。

 驚きと喜びと、微かな不安を滲ませたローゼを安心させるかのように、カレンはにっこりと笑って見せた。

「私たちにド~ンと任せてください!」

 ぐっと胸を張るカレンは頼もしく、ローゼは外に出られる喜びに顔を輝かせた。

 ずっとずっと、夢にまで見た外の世界。
 伝え聞いた言葉を元に思い描く風景の色彩をこの目で確かめられる日がこようとは、思ってもみなかった。
 
 カレンたち協力者も交えて話し合った結果、第一王女ジルダは、満月と三日月の夜に現れ、大切な宝物を手放さざるを得なかった不遇な人たちを救う心優しい怪盗、ローゼに扮することになった。

 協力者たちは優秀で、王都での情報を集めて困っている人や横暴な美術商を洗い出してくれたり、ローゼが迷わないように、現場への道順や侵入する建物の見取り図を用意してくれた。
 それに、王女宮を出るときはカレンがついてきてくれて、陰ながらローゼを助けた。

 全てが順調だった。

 ローゼは難なく美術商の店やオークションハウスから蒐集品を盗み出しては持ち主に返して、街の人たちから賛辞の言葉を聞くと、飛び上がらんばかりに喜んだ。

 長年の願いを叶えられた彼女は張り切って怪盗ローゼを演じていたある日、ついに彼女に不穏な影が忍び寄ってきた。

 いつものように怪盗の仕事を終えたローゼが王女宮に戻ると、あたりは騒然としている。
 姿を隠したまま部屋に戻ると、留守番をしていたメイドのダフネが飛んできてローゼに抱きついた。

「マリーが、死んだ?」
「ええ、悲鳴が聞こえて駆けつけたときには、もう」

 ダフネは言葉を詰まらせて、唇を噛み締めた。

 侍女としてローゼによく仕えてくれたマリーは、ローゼが外に出ている間に、何者かに殺されてしまったのだ。

「犯人は捕まったの?」
「いいえ、まだなんです」

 ダフネは震える唇を動かして、例の凶悪な魔女の名前を告げた。

「黒霧の魔女の、仕業なんです」

 幼い頃よりその存在を聞かされていたローゼにとって、黒霧の魔女はおとぎ話に出てくる妖精の如く、現実味のない存在だった。実在しているのかも疑っていたというのに、大切な人の命と引き換えに、思い知らされてしまった。

 愕然とするローゼを、カレンとダフネが無言のまま抱きしめた。


 ◇


 マリーが死んでから、ローゼは彼女を偲ぶためにも怪盗の仕事をやめようとおもったが、カレンたちは「マリーも続けることを望んでいる」と説得させて、満月と三日月の夜にはローゼを外に連れ出した。

そんな中、ローゼたちは次の標的を、『ギャラリー・バルバート』にある【リリッツィアの涙】にした。

「ジルダ様、いいですか? もし顔を合わせるようなことがあっても、支配人のバルバート男爵に惚れてはいけませんよ?」

 カレンは冗談めかしてそう言うと、ローゼの鼻先をつんとつついた。
 ローゼはむっとして眉間に皺を寄せてねめつける。

「天と地がひっくり返っても、そんなことにはならないわ!」

 ダンテ・バルバートの名前はカレンが王都の話を聞かせてくれた時に教えてくれたので知っている。
 花の顔の男爵ともてはやされ、幾人もの女性と浮き名を流す色男だと聞いており、その軽薄さに嫌悪感を覚えていた。

「ふふ、それを聞いて安心しました。私の大切なジルダ様を盗られたくありませんもの」

 カレンは手際よくローゼを着替えさせる。
 宝石が散りばめられた眩く輝くドレスを脱いだローゼは、街で流行っている型のドレスに袖を通した。

 年頃の女性であるローゼは、王女としての威厳を見せつけるために用意された煌びやかなドレスより、可愛らしいこちらのドレスの方が好きだった。
 鏡の前で回って”ローゼ”の衣装を楽しむ彼女に、カレンがいつものように仮面を手渡す。

 ローゼが仮面をつけると、魔法が反応して、彼女の金白色の髪は瞬く間に亜麻色に変わる。
 そうしていつものように張り切って王女宮を出たローゼは、ダンテと出会って、最悪な気分で帰ってきた。

(絶対に、あんな奴になんか惚れないわ)

 ダンテに騙され、さんざんからかわれた挙句、【リリッツィアの涙】を手に入れられなかったローゼは、ダンテの薄笑いを浮かべた顔を思い出しては歯ぎしりをしたくなった。

「サンチェス夫人に返してあげたかったのに……せめて助けてあげられる手立てはないかしら?」

 弱き者や困っている者には手を差し伸べるべきだと教えられて育ってきたローゼにとって、盗み出すのは失敗したとはいえ、このままサンチェス夫人を放っておきたくなかった。

 悩む彼女のためにカレンが王都で仕入れてくれたところ、驚く事実を耳にした。
 かのバルバート男爵が、サンチェス家を建て直すために出資をしたらしい、と。

「なによ、まったく興味なさそうだったのに、どうして助けてくれたの?」

 まさか、自分の言葉を聞いて、心を動かしてくれたのだろうか?
 そう考えて至ったものの、ぶんぶんと頭を振って自分の結論を否定する。

 彼に限って、そんなことはないだろう。数多の恋人を作っては捨てるような男が、人の意見を聞き入れ、他者を助けようとするはずがない、と。

 それでも真相を知りたくて、カレンたちにも内緒でこっそりと王女宮を抜け出した。

「……いつからここは野良猫の隠れ家になったんですか?」

「口が悪いわね」

 彼はローゼを見るなり、ぶっきらぼうにそう言ったが、その表情はどことなく嬉しそうで、ローゼの心臓はばくばくと音を立て始めた。

「サンチェス夫人、援助を受けて新事業を始めたらしいわね。それなりに上手くいってるって」

「そうらしいですね。噂には聞いています」

「バルバート男爵、あなたが支援を名乗り出たんでしょう?」

 その真相を知りたくて、ごくりと唾を飲み込んで、彼の返事に耳を傾けた。

「ええ、面白そうだから投資してみました。あなたの言う通り、心を支える家宝があれば傾いた家は立ち直れるのか、検証したいと思いましてね」

 まさかとは思っていたが、彼はローゼの言葉を聞いて動いてくれた。否定的だったのにもかかわらず、考え直してくれた。

 彼女は嬉しさのあまりじっと彼の顔を見てしまっていたのに気づき、すっと目を逸らせた。
 あれだけ憎く思っていたダンテが目元を綻ばせて自分を見ているのが、ひどく、落ち着かない。

「……サンチェス伯爵夫人を助けてくれて、ありがとう。それを言いに来ただけよ」

 胸の中を温かいものが流れていく感覚に心地よさを覚えたローゼだったが、それは一瞬のうちに終わってしまう。
 様子を見に来た従業員から庇うために咄嗟に引き寄せられたローゼは、生まれて初めて、父や兄以外の異性に密着されて、混乱した。

「信じられない」

 喉から絞り出した声は震えていた。
 頬が熱く、真っ赤になっているのはわかっていたが、隠すことなく睨みつけると、ダンテは宝石のような瞳にゆらりと燃える炎を宿して手を伸ばしてきて、慌てて逃げた。

(最低最低最低――!)

 馴れ馴れしく触ってきたダンテを心の中で罵るが、なぜか以前ほどの嫌悪感はない。
 それどころか、彼が他の女性に対してもあのように接していると思うと、ずきりと胸が痛んだ。

 初めて芽生えたこの感情に、ローゼは心当たりがあったが、認めてしまうのが怖くて、それ以上は考えないことにした。

 ダンテと顔を合わせたくなくて『ギャラリー・バルバート』を避けていたのだが、いつの間にか、ゆく先々で彼の姿を見つけるようになった。
 ダンテに話しかけられると噛みつくように返していたというのに、いつしか彼の元を訪れては話をせがむようになった。

 心底嫌っていた相手に落ちてしまった恋とは厄介なもので、ローゼはダンテのことをもっと知りたいと思い、カレンにダンテの噂話を強請った。

 母親との確執や、不慮の事故で若くして当主の座に就いたことなど、知れば知るほど、ダンテに寂しい思いをして欲しくなくて、彼のそばにいたくなった。
 会いに行くとダンテはいつも柔らかく微笑んで、とても嬉しそうにしてくれるからなおさら、隣にいたいと、望むようになった。

 それでも運命はローゼの願いを聞き入れてくれず、ローゼはその願いを諦めるしかなかった。

 悲しい事件は止むことがなく、1人また1人と、ローゼに仕える侍女やメイドたちが、彼女が留守の間に命を落としたのだ。

 ついにカレンが殺されて、ローゼは密かに王女宮を出て行った。


 ◇


 その夜、ペスカの街は数多の客を迎え、いつになく活気にあふれていた。
 
 賑わう大通りから少し離れた場所にあるこぢんまりとした宿屋の扉が開いて、フードを深く被った、小柄な女性が出てきた。

 彼女は道ゆく人たちの合間を縫って、広場へと向かう。

「黒霧の魔女さん、ずっとこの時を待っていたんでしょう?」

 立ち止まって震える手でフードを脱ぐと、白金色の髪がふわりと零れ落ちる。
 女性は――ローゼは、人だかりの中に視線を走らせて、黒霧の魔女の姿を探す。

 姿のわからない魔女だが、その人物の物であろう禍々しい殺気だけは、絶えず感じ取っている。王城にいる時も、時おり黒く冷たい靄のようなものが、自分について来ている時があって、その度にこの身の毛のよだつような気配を感じ取っていた。

(これで良かったのよ。もう誰も、犠牲にならないんだもの)

 やがてそれは、怪盗として外に出ている時にも追いかけてくるようになり、それに気づいた時、ローゼは王都から出る決意をした。

 これ以上誰も殺されないためにも、自分は消えるべきなんだ、と。
 もしダンテまで巻き込まれたら、と想像するだけで、恐ろしくておそろしくて、しかたがなかったのだ。

 自分の命を差し出して周りの人たちが助かるなら、悔いはない。

 そう思いつつも、ふとした瞬間に愛おしい人物の面影が脳裏をよぎるたびに、ずきりと胸が痛くなる。
 願わくば、最後にもう一度、彼の姿を見たかった。でもそれは叶わないことで、ローゼはそっと目を閉じて瞼の裏にダンテの姿を思い描き、名残惜しそうに瞼を開ける。

 引き戻された現実の、ひときわおぞましい気配がする一点に向かって声をかけた。

「あなたのお望み通り、殺しやすいように1人になってあげたわ。だから姿を見せなさいよ。この追いかけっこはもう、終わりにしましょう?」

 これまでは、この凶悪な存在と対峙することのないように、ずっと、守られてきていた。

 ローゼが黒霧の魔女の犠牲にならないように、メイドや侍女たちがしてくれていたことに早く気づけなかった自分を、ローゼは何度も責め続けた。

(結局、私は何もできない、何の力もない王女のままだったのね)

 王宮から一歩も外に出たことのない彼女の切なる願いは、父親や兄のように、国民たちの力になることだった。
 そんな彼女は怪盗ローゼになった時は初めて、自分も人のために何かできるのだと充足感を得ていたのに、しょせんはそれもかりそめのもので、自分がそうしている間に守ってくれた人たちが命を落としていたのに止めることができなかった。


 それが、どれほど苦しかったことか。


 ローゼは夜空に浮かぶ月を見上げて、王都にいる愛おしい人に想いを馳せる。
 彼は守れたと、それだけが心の救いだった。

(ダンテ、もう少ししたら、あなたの元に帰るわ)

 そう、たとえ、どんな姿になっても。