彼女は黒地に金色の月の装飾が施された仮面をつけているが、髪の色や背格好が同じため、以前迷い込んできた客だと判断した。
「騙すも何も、盗まれないように隠しただけですよ?」
ダンテは涼やかな顔でそう言うと、片方の腕を彼女の腰に巻きつけて身動きを封じ、仮面を外した。
(さて、噂の怪盗さんの素顔を暴いてやろうじゃないか)
意地悪く浮かべていた微笑みは、彼女の顔を見て崩れていった。
(おいおい、とんでもない美人だな)
亜麻色の髪はけぶるような白金色に代わり、月の光を受けて輝く。
睨み上げてくるのは珊瑚色の大きな目は白金色の長い睫毛に縁取られており、繊細な工芸品のようだ。おまけに形の良い唇はふっくらとしていて、目を奪われてしまう。
美しく、彼と年の近い女性だ。
見惚れてしまったダンテが波打つ髪に触れると、鳩尾《みぞおち》に渾身の一撃を喰らわされてしまった。
よろめいた拍子に、ローゼは彼の腕から逃げ出した。
その手には【リリッツィアの涙】が握られている。
「やっぱりあなたが持っていたのね。展示室に飾ってあるものは魔力も輝きも弱かったもの」
「お嬢さん、暴力を行使して奪うのは犯罪ですよ」
ダンテは大切な商品を奪われたというのに、顔色を変えることなく余裕を保っている。
ローゼは初めて会った時から、彼のそんな態度が気に食わなかった。
落ち着きがあるというより、まるで人を小馬鹿にしているような気がするからだ。
嫌悪を露わにして、睨みつける。
「変態から身を守るための正当防衛よ。それに、私のために盗むんじゃないわ。持つべき人に返すの」
「その商品を売った人のことを知っていますか? 夫に先立たれたサンチェス伯爵夫人が、家を守るために手放したんですよ」
「知ってるわ」
「あなたがそれを夫人に返せば、彼女が金儲けのために怪盗と手を組んだと噂をされるかもしれません。それでもなお、この宝を返したいと?」
ローゼははっとした表情になって考え込む素振りを見せたが、拳を固く握って顔を上げた。
「この宝は、サンチェス家にとっても夫人にとっても大切な物よ。歴代のサンチェス夫人たちの想いが受け継がれているからこそ、立て直すのに奔走している夫人のそばになくてはならないものなの。心の支えとして、必要な物なのよ!」
「それが盗んでいい理由にはなりません。家宝がなくとも夫人に力があれば、サンチェス家を建て直せるんですから」
どこのお嬢様なのかわからないが、世間知らずもいいところだ。
頼まれたわけでもないのに物を盗んで、持ち主に返すだなんて。
勝手なことをしているのにも関わらず、自分の正義感に酔っているのだろうと、内心嘲笑った。
「怪盗ローゼ、あなたがしていることは犯罪と変わりないのですよ」
「いいえ、私は、弱き者たちのためにできることをしてるのよ」
「救いようのない人ですね」
「あなたには言われたくないわ」
「心外ですね。私は公正で安全な取引をするようこのオークションハウスを運営しているというのに」
それは本心だ。
父親の跡を継いだその日から、彼は『ギャラリー・バルバート』の価値と信頼が高まるよう心血を注いできた。
しかし、ローゼは納得いかないような顔をしている。
それどころか、先ほどよりも剣呑な目つきになる。
「女の敵であるダンテ・バルバートに罪について講釈されたくないってことよ。あなたがしていることは罪名がないだけで立派な犯罪よ」
「おやおや、なんのことを言っているのやら」
「とぼけないで! 数多の女性を弄んできたあなたの所業は知っているわよ!」
「酷い言われようですね。私は彼女たちのお誘いに応じているだけですのに」
「最低ね! 言い訳したって許されないんだから!」
ローゼは挑発すれば面白いくらいにのってくれる。
コロコロと表情が変わるのを見ていると、他の表情も見たいと、ダンテは思ってしまった。
彼女の笑顔もまた、見てみたい、と。
「ローゼ、」
衝動に突き動かされるように名前を呼んだその時、足音が彼らの元に近づいているのが聞こえてきた。
足音と、金属音同士がぶつかる音。
どうやら騎士が見回りに来たようだ。
「惜しいですがお別れの時間のようですね」
ダンテがそう言いながら指を動かすと、ローゼの手の中にあった【リリッツィアの涙】がふわりと浮かんで、ローゼの手の中から逃げ出してダンテの元に帰ってくる。
ローゼが慌てて捕まえようとするが、【リリッツィアの涙】は彼女の手をすり抜けていく。
「油断させるなんて卑怯よ!」
「あなたの悪行が増えないようにしてあげたんですから、むしろ感謝されたいものですよ」
足音がどんどん大きくなってきて、ローゼは取り返すのを諦めたようだ。
仮面を床から拾い上げる彼女の姿を見ていると振り向いて欲しくなって、もう一度自分の顔を見て欲しくて、声をかける。
「さよなら、美しい怪盗さん。よい夜を」
「あなたのせいで最悪だわ」
吐き捨てるようにそう言うと、風を巻き起こした。ダンテは思わず目を瞑る。
風は吹き荒れて、廊下中の扉を乱暴に開け放つ音がする。
風が止んで目を開けてみると、ローゼの姿はもうなかった。
「バルバート男爵! 強い風が吹きましたが、無事ですか?!」
「ええ、何事もありませんでしたよ。見回りありがとうございます」
駆けつけた騎士に愛想の微笑みを向ける。
「私は仕事に戻りますので、失礼します」
足早に支配人室に入ったダンテは、椅子に深く腰かけた。
懐から【リリッツィアの涙】を取り出して机の上に置くと、溜息をつく。
怪盗ローゼを負かしたというのに、気分は晴れない。
「心の支えが必要、ね。馬鹿馬鹿しい。相手に力がなけりゃ何をしたって無駄に終わるというのに」
正義感に酔った、世間知らずのお嬢様の考え。
それなのに、なぜだか戯言と片付けられなくて、胸の内に靄が渦巻いて彼を苦しめる。
「利益になんて、ならねぇのによ」
情に流されてしまえば商売はやっていけない。
持ちつ持たれつ、あるいは手中に転がして、利益の確保をしていかねばならないというのに。
最低限の貴族の義務は果たしている。
それなのに、さらに傾きかけている貴族の支援をするだなんて、普段の自分なら考えもしなかったことだ。
損得勘定をして、利益を見込めないと判断したらすっぱりと止めるべき。
それが、従業員や領民を守る彼の務めだから。
「……馬鹿馬鹿しい」
苛立ったように羽ペンを動かすと、ベルを鳴らして事務員を呼びつけた。
「この商品は俺が買う。トビアに想定入札価格を出させろ。それから、速やかに出品者に金を払うよう手配してくれ」
「かしこまりました」
無駄なことだと、そう思いながらも【リリッツィアの涙】を買い上げたのは、忙しすぎて頭が混乱していたのかもしれないと、後に思い出しても笑えてくる話だった。
ダンテは商品をオークションに出さずに買い上げて、そのお金を支援金として【リリッツィアの涙】と一緒に、サンチェス夫人に贈った。
◇
ダンテ・バルバートがサンチェス家の支援をした話は社交界の話題に上った。
彼が新しい事業をするのではないかと憶測する者もいれば、サンチェス伯爵夫人とのただならぬ関係を噂する者も現れる。
どちらの話が流れようと、ダンテは気に留めていなかった。
彼はただ、自分のこの行動を、ローゼはどう受け止めてくれたのか。そればかりが気になっていた。
「トビア、今日仕入れた商品はどこにある?」
「第三保管室です」
「そうか。俺も見ておこう」
「お願いします」
保管室に入ったダンテが品目と商品を照らし合わせていると、扉が風で開いた。
魔法で人為的に起こされた風。
ローゼの魔法かもしれないと、ダンテは期待を込めて開いた扉の先を見たが、外には誰も立っていない。
それでも、彼は目元を綻ばせた。
「……いつからここは野良猫の隠れ家になったんですか?」
「口が悪いわね」
猫みたいにスルリと侵入してきた女性を一瞥する。
彼女は後ろ手で扉を閉めると、探るように彼を見つめる。
「サンチェス夫人、援助を受けて新事業を始めたらしいわね。それなりに上手くいってるって」
「そうらしいですね。噂には聞いています」
「バルバート男爵、あなたが支援を名乗り出たんでしょう?」
「ええ、面白そうだから投資してみました。あなたの言う通り、心を支える家宝があれば傾いた家は立ち直れるのか、検証したいと思いましてね」
彼女はすっと目を逸らせた。
「……サンチェス伯爵夫人を助けてくれて、ありがとう。それを言いに来ただけよ」
ローゼの言葉に、ダンテの胸はとくんと脈を打った。
脈を打つたびに、温かなものが全身に広がってゆく。
「その言葉を聞きたかったんです」
「え……?」
驚いたローゼの、油断した一瞬を見計らって魔法で仮面を取り上げると、ローゼは目を釣り上げて睨んでくる。
「あなたって本当に卑怯な人ね! 返しなさい!」
「怪盗にだけは言われたくないですね」
取り返しに来たローゼに手を伸ばすが、振り払われてしまう。
「ど、どさくさに紛れて触らないでよ変態!」
仮面を取り返そうとしたローゼがまた手を伸ばしたその時、扉の外から声が聞こえてきた。扉を叩く音が数回聞こえてきた後、ドアノブがガチャリと音を立てる。
「おとなしくしてください」
ダンテはローゼを引き寄せると扉に背を向けて彼女の姿を隠し、彼女の頬にそっと唇を寄せた。
「ダンテさん、騒がしいですけど大丈夫ですか――って、仕事場で何やってるんですか」
オークションが開催されているこの時間帯は静かなはずのフロアで騒がしい声が聞こえてきたため、心配になったトビアが様子を見に来てくれたのだが、あろうことか、心配された本人は女性を連れ込んで、お楽しみの最中と見えた。
しかもトビアの位置から見てみれば、ダンテたちが口づけを交わしているように見えてしまう。
呆れかえったトビアから、非難の視線が雨の如く降り注がれた。
「悪いな、いいところだから邪魔しないでくれ」
「はぁ~っ。真面目に仕事しているのかと思ったら、この様ですか!」
勘弁してくださいよ、と小言をこぼしてトビアは部屋を後にした。
扉が閉まる音がすると、ローゼはダンテの胸を押して離れようとする。それでも、ダンテに強く引き寄せられていて、離れられない。
「信じられない」
彼女の声も身体も震えており、腕の中に視線を向けると、頬を真っ赤に染めて睨みつけられている。
これまで会ったどの令嬢たちからも向けられたことのない視線に、心臓を握りしめられるような感覚がした。
(してやられたもんだな)
彼女の顎をに手を添えてそ顔を近づけたの時、またもや鳩尾に一撃を喰らわされて、蹲っている内に逃げられてしまった。
それからローゼは、現れなかった。
他のオークション会場なら現れるのに、『ギャラリー・バルバート』だけは避けられていた。
会えなくなればなるほど、彼女への気持ちが募っていき、ついにダンテはローゼを追いかけるようになった。
彼女から美術品を取り返したりはしなかったが、探し出しては声をかけて、その度に睨みつけられた。
ダンテが目の前に現れれば、決まってローゼは迷惑そうな顔をする。
「なんでまたあなたがいるのよ?!」
「視察に来たんですけど、思いがけずあなたに出会えるとは運がいい」
「私の運は最悪だったようね」
こんなやり取りを何回も、いや、何十回も繰り返すうちに、彼らは一言二言は世間話を交わせるようになっていった。
「ところで、フロース演劇団の鑑賞券が手に入りそうなんだけど、一緒に観に行かないか? 王都の令嬢たちから人気がある演目なんだけど」
「あなたとなら御免だわ!」
「つれねぇな」
進歩したとはいえ、こんな調子である。
それでもダンテは、彼女が言葉を交わしてくれるのが嬉しかった。
自分を見つけても逃げ出さずに声をかけてくれる喜びを噛みしめて、睨んでくる珊瑚色の瞳を、愛おしさを包み隠さずに見つめ返した。
ローゼが現れそうな商品の仕入れ情報を聞けば、他のオークションハウスに足を運ぶこともあり、視察のためと周りには言っていたが、本当の目的は教えられない。
いつか、彼女が仮面をつけずに、ローゼという1人の女性として自分と向き合ってくれたらと希望を抱き、ダンテは彼女の後を追いかけ続けた。
「騙すも何も、盗まれないように隠しただけですよ?」
ダンテは涼やかな顔でそう言うと、片方の腕を彼女の腰に巻きつけて身動きを封じ、仮面を外した。
(さて、噂の怪盗さんの素顔を暴いてやろうじゃないか)
意地悪く浮かべていた微笑みは、彼女の顔を見て崩れていった。
(おいおい、とんでもない美人だな)
亜麻色の髪はけぶるような白金色に代わり、月の光を受けて輝く。
睨み上げてくるのは珊瑚色の大きな目は白金色の長い睫毛に縁取られており、繊細な工芸品のようだ。おまけに形の良い唇はふっくらとしていて、目を奪われてしまう。
美しく、彼と年の近い女性だ。
見惚れてしまったダンテが波打つ髪に触れると、鳩尾《みぞおち》に渾身の一撃を喰らわされてしまった。
よろめいた拍子に、ローゼは彼の腕から逃げ出した。
その手には【リリッツィアの涙】が握られている。
「やっぱりあなたが持っていたのね。展示室に飾ってあるものは魔力も輝きも弱かったもの」
「お嬢さん、暴力を行使して奪うのは犯罪ですよ」
ダンテは大切な商品を奪われたというのに、顔色を変えることなく余裕を保っている。
ローゼは初めて会った時から、彼のそんな態度が気に食わなかった。
落ち着きがあるというより、まるで人を小馬鹿にしているような気がするからだ。
嫌悪を露わにして、睨みつける。
「変態から身を守るための正当防衛よ。それに、私のために盗むんじゃないわ。持つべき人に返すの」
「その商品を売った人のことを知っていますか? 夫に先立たれたサンチェス伯爵夫人が、家を守るために手放したんですよ」
「知ってるわ」
「あなたがそれを夫人に返せば、彼女が金儲けのために怪盗と手を組んだと噂をされるかもしれません。それでもなお、この宝を返したいと?」
ローゼははっとした表情になって考え込む素振りを見せたが、拳を固く握って顔を上げた。
「この宝は、サンチェス家にとっても夫人にとっても大切な物よ。歴代のサンチェス夫人たちの想いが受け継がれているからこそ、立て直すのに奔走している夫人のそばになくてはならないものなの。心の支えとして、必要な物なのよ!」
「それが盗んでいい理由にはなりません。家宝がなくとも夫人に力があれば、サンチェス家を建て直せるんですから」
どこのお嬢様なのかわからないが、世間知らずもいいところだ。
頼まれたわけでもないのに物を盗んで、持ち主に返すだなんて。
勝手なことをしているのにも関わらず、自分の正義感に酔っているのだろうと、内心嘲笑った。
「怪盗ローゼ、あなたがしていることは犯罪と変わりないのですよ」
「いいえ、私は、弱き者たちのためにできることをしてるのよ」
「救いようのない人ですね」
「あなたには言われたくないわ」
「心外ですね。私は公正で安全な取引をするようこのオークションハウスを運営しているというのに」
それは本心だ。
父親の跡を継いだその日から、彼は『ギャラリー・バルバート』の価値と信頼が高まるよう心血を注いできた。
しかし、ローゼは納得いかないような顔をしている。
それどころか、先ほどよりも剣呑な目つきになる。
「女の敵であるダンテ・バルバートに罪について講釈されたくないってことよ。あなたがしていることは罪名がないだけで立派な犯罪よ」
「おやおや、なんのことを言っているのやら」
「とぼけないで! 数多の女性を弄んできたあなたの所業は知っているわよ!」
「酷い言われようですね。私は彼女たちのお誘いに応じているだけですのに」
「最低ね! 言い訳したって許されないんだから!」
ローゼは挑発すれば面白いくらいにのってくれる。
コロコロと表情が変わるのを見ていると、他の表情も見たいと、ダンテは思ってしまった。
彼女の笑顔もまた、見てみたい、と。
「ローゼ、」
衝動に突き動かされるように名前を呼んだその時、足音が彼らの元に近づいているのが聞こえてきた。
足音と、金属音同士がぶつかる音。
どうやら騎士が見回りに来たようだ。
「惜しいですがお別れの時間のようですね」
ダンテがそう言いながら指を動かすと、ローゼの手の中にあった【リリッツィアの涙】がふわりと浮かんで、ローゼの手の中から逃げ出してダンテの元に帰ってくる。
ローゼが慌てて捕まえようとするが、【リリッツィアの涙】は彼女の手をすり抜けていく。
「油断させるなんて卑怯よ!」
「あなたの悪行が増えないようにしてあげたんですから、むしろ感謝されたいものですよ」
足音がどんどん大きくなってきて、ローゼは取り返すのを諦めたようだ。
仮面を床から拾い上げる彼女の姿を見ていると振り向いて欲しくなって、もう一度自分の顔を見て欲しくて、声をかける。
「さよなら、美しい怪盗さん。よい夜を」
「あなたのせいで最悪だわ」
吐き捨てるようにそう言うと、風を巻き起こした。ダンテは思わず目を瞑る。
風は吹き荒れて、廊下中の扉を乱暴に開け放つ音がする。
風が止んで目を開けてみると、ローゼの姿はもうなかった。
「バルバート男爵! 強い風が吹きましたが、無事ですか?!」
「ええ、何事もありませんでしたよ。見回りありがとうございます」
駆けつけた騎士に愛想の微笑みを向ける。
「私は仕事に戻りますので、失礼します」
足早に支配人室に入ったダンテは、椅子に深く腰かけた。
懐から【リリッツィアの涙】を取り出して机の上に置くと、溜息をつく。
怪盗ローゼを負かしたというのに、気分は晴れない。
「心の支えが必要、ね。馬鹿馬鹿しい。相手に力がなけりゃ何をしたって無駄に終わるというのに」
正義感に酔った、世間知らずのお嬢様の考え。
それなのに、なぜだか戯言と片付けられなくて、胸の内に靄が渦巻いて彼を苦しめる。
「利益になんて、ならねぇのによ」
情に流されてしまえば商売はやっていけない。
持ちつ持たれつ、あるいは手中に転がして、利益の確保をしていかねばならないというのに。
最低限の貴族の義務は果たしている。
それなのに、さらに傾きかけている貴族の支援をするだなんて、普段の自分なら考えもしなかったことだ。
損得勘定をして、利益を見込めないと判断したらすっぱりと止めるべき。
それが、従業員や領民を守る彼の務めだから。
「……馬鹿馬鹿しい」
苛立ったように羽ペンを動かすと、ベルを鳴らして事務員を呼びつけた。
「この商品は俺が買う。トビアに想定入札価格を出させろ。それから、速やかに出品者に金を払うよう手配してくれ」
「かしこまりました」
無駄なことだと、そう思いながらも【リリッツィアの涙】を買い上げたのは、忙しすぎて頭が混乱していたのかもしれないと、後に思い出しても笑えてくる話だった。
ダンテは商品をオークションに出さずに買い上げて、そのお金を支援金として【リリッツィアの涙】と一緒に、サンチェス夫人に贈った。
◇
ダンテ・バルバートがサンチェス家の支援をした話は社交界の話題に上った。
彼が新しい事業をするのではないかと憶測する者もいれば、サンチェス伯爵夫人とのただならぬ関係を噂する者も現れる。
どちらの話が流れようと、ダンテは気に留めていなかった。
彼はただ、自分のこの行動を、ローゼはどう受け止めてくれたのか。そればかりが気になっていた。
「トビア、今日仕入れた商品はどこにある?」
「第三保管室です」
「そうか。俺も見ておこう」
「お願いします」
保管室に入ったダンテが品目と商品を照らし合わせていると、扉が風で開いた。
魔法で人為的に起こされた風。
ローゼの魔法かもしれないと、ダンテは期待を込めて開いた扉の先を見たが、外には誰も立っていない。
それでも、彼は目元を綻ばせた。
「……いつからここは野良猫の隠れ家になったんですか?」
「口が悪いわね」
猫みたいにスルリと侵入してきた女性を一瞥する。
彼女は後ろ手で扉を閉めると、探るように彼を見つめる。
「サンチェス夫人、援助を受けて新事業を始めたらしいわね。それなりに上手くいってるって」
「そうらしいですね。噂には聞いています」
「バルバート男爵、あなたが支援を名乗り出たんでしょう?」
「ええ、面白そうだから投資してみました。あなたの言う通り、心を支える家宝があれば傾いた家は立ち直れるのか、検証したいと思いましてね」
彼女はすっと目を逸らせた。
「……サンチェス伯爵夫人を助けてくれて、ありがとう。それを言いに来ただけよ」
ローゼの言葉に、ダンテの胸はとくんと脈を打った。
脈を打つたびに、温かなものが全身に広がってゆく。
「その言葉を聞きたかったんです」
「え……?」
驚いたローゼの、油断した一瞬を見計らって魔法で仮面を取り上げると、ローゼは目を釣り上げて睨んでくる。
「あなたって本当に卑怯な人ね! 返しなさい!」
「怪盗にだけは言われたくないですね」
取り返しに来たローゼに手を伸ばすが、振り払われてしまう。
「ど、どさくさに紛れて触らないでよ変態!」
仮面を取り返そうとしたローゼがまた手を伸ばしたその時、扉の外から声が聞こえてきた。扉を叩く音が数回聞こえてきた後、ドアノブがガチャリと音を立てる。
「おとなしくしてください」
ダンテはローゼを引き寄せると扉に背を向けて彼女の姿を隠し、彼女の頬にそっと唇を寄せた。
「ダンテさん、騒がしいですけど大丈夫ですか――って、仕事場で何やってるんですか」
オークションが開催されているこの時間帯は静かなはずのフロアで騒がしい声が聞こえてきたため、心配になったトビアが様子を見に来てくれたのだが、あろうことか、心配された本人は女性を連れ込んで、お楽しみの最中と見えた。
しかもトビアの位置から見てみれば、ダンテたちが口づけを交わしているように見えてしまう。
呆れかえったトビアから、非難の視線が雨の如く降り注がれた。
「悪いな、いいところだから邪魔しないでくれ」
「はぁ~っ。真面目に仕事しているのかと思ったら、この様ですか!」
勘弁してくださいよ、と小言をこぼしてトビアは部屋を後にした。
扉が閉まる音がすると、ローゼはダンテの胸を押して離れようとする。それでも、ダンテに強く引き寄せられていて、離れられない。
「信じられない」
彼女の声も身体も震えており、腕の中に視線を向けると、頬を真っ赤に染めて睨みつけられている。
これまで会ったどの令嬢たちからも向けられたことのない視線に、心臓を握りしめられるような感覚がした。
(してやられたもんだな)
彼女の顎をに手を添えてそ顔を近づけたの時、またもや鳩尾に一撃を喰らわされて、蹲っている内に逃げられてしまった。
それからローゼは、現れなかった。
他のオークション会場なら現れるのに、『ギャラリー・バルバート』だけは避けられていた。
会えなくなればなるほど、彼女への気持ちが募っていき、ついにダンテはローゼを追いかけるようになった。
彼女から美術品を取り返したりはしなかったが、探し出しては声をかけて、その度に睨みつけられた。
ダンテが目の前に現れれば、決まってローゼは迷惑そうな顔をする。
「なんでまたあなたがいるのよ?!」
「視察に来たんですけど、思いがけずあなたに出会えるとは運がいい」
「私の運は最悪だったようね」
こんなやり取りを何回も、いや、何十回も繰り返すうちに、彼らは一言二言は世間話を交わせるようになっていった。
「ところで、フロース演劇団の鑑賞券が手に入りそうなんだけど、一緒に観に行かないか? 王都の令嬢たちから人気がある演目なんだけど」
「あなたとなら御免だわ!」
「つれねぇな」
進歩したとはいえ、こんな調子である。
それでもダンテは、彼女が言葉を交わしてくれるのが嬉しかった。
自分を見つけても逃げ出さずに声をかけてくれる喜びを噛みしめて、睨んでくる珊瑚色の瞳を、愛おしさを包み隠さずに見つめ返した。
ローゼが現れそうな商品の仕入れ情報を聞けば、他のオークションハウスに足を運ぶこともあり、視察のためと周りには言っていたが、本当の目的は教えられない。
いつか、彼女が仮面をつけずに、ローゼという1人の女性として自分と向き合ってくれたらと希望を抱き、ダンテは彼女の後を追いかけ続けた。