(ここはどこなのかしら?)

 夢の中、ロゼッタは小さな部屋で、誰かに抱っこされていた。
 頭を撫でてくれているその手は頬に降りてきて、頬に触れてくる。
 それは色白で華奢な女性の手。

『ロゼッタ、ママはずっと傍にいるからね』

 頭の上から降ってくる声は美しく、聞いていると自然と心が落ち着く。

(またこの夢だわ)

 引き取られた家が没落して孤児院に戻るたびに、いつもこの女性が夢に出てくる。
 しかし自分は動くことができなくて、彼女の顔はまだ見たことがない。いつも彼女の首元しか見えないのだ。

(この人が本当に、わたくしの、”ママ”なのかしら?)

『私が弱いから、こうすることしかできないの。ごめんなさい』

 ポタリと、目の前にしずくが落ちてくる。
 ママと名乗る女性が泣いているのだ。

「ママ、どうしてわたくしを捨てたの?」
『あなたを守るためよ』
「どうして……?」

 ロゼッタも泣きたくなった。
 この人が本当に母親なら、その理由を聞きたかった。今はどこに居るのかも、何をしているのかも。
 聞きたいことが、いっぱいある。

 その時、どこからともなくダンテの声が聞こえてきた。

「ロゼッタ、大丈夫だ。俺がずっと傍にいる」

 不安が滲んでいる声だが、彼の声を聞くと不思議と悲しい気持ちが引いていった。
 ポカポカと温かい光が現れると、彼女を包む。

 ママと名乗る女性はふふっと小さく笑った。

『さあ、起きてあげなさい。あなたがいないと寂しくて死んでしまう人が待っているわ』

 声の主はロゼッタの髪を耳にかけてあげたながら名残惜しそうにまた頭を撫でる。

「ママはどこにいるの?」

 たまらなくなって尋ねると、女性はロゼッタの頭にキスした。

『あなたの傍にいるわ。風の精霊になってずっと、見守っているからね』

 女性の声は次第に遠のいていった。寂しくて、胸がツキンと痛くなる。
もっと一緒にお話ししたい。
 まだまだ聞きたいことがたくさんあるのだ。聞いて欲しいこともまた、いっぱいある。
 それでも周りの景色は光の中に包まれて、白い世界が広がって消えてしまった。やがて光が消えると、ダンテのエメラルド色の瞳が飛び込んでくる。

「ロゼッタ、おはよう」

 嬉しそうに名前を呼んでくれる彼の目の下には、うっすらと隈ができている。どうやらあまり眠れなかったようだ。
 ロゼッタと目が合うと泣きそうになりながらも微笑みかけてきた。

「――っダンテ?! ずっと起きていたんですの? それに、どうしてそんな悲しそうな顔をしていますの?」
「寝ているうちにお前がいなくなっちまうんじゃないかと思って眠れなかった」

 ロゼッタは唖然とした。
 そんなこと考えもしなかったのだ。むしろ、その手があったかと思うほどである。

「怖い夢を見てしまったのか?」

 彼の指が目元を拭ってきて初めて、ロゼッタは自分が泣いていたことに気づいた。

「夢の中に母親が出てきたのか? ずっと呼んでいたぞ」

 どうやら寝言を聞かれてしまったようだ。それも、母親らしき人物に甘えているのを見られたのがなおさら恥ずかしい。

「……たまに夢の中に出てくる人がいますの。でも、その人がママなのかどうかはわからないですわ。私は一度もママを見たことがないですもの」
「父親も?」
「ええ」

 ダンテはロゼッタを抱き寄せて彼女の頭を撫でた。

「ロゼッタには俺がいる」
「ダンテ、絶対に、殺されないで」
「まだお前のデビュタントも支配人見習いの姿も見ていないのに死ねるもんか」

 そう言われても不安はまだ燻っている。
 自分が生きている限り、ダンテも自分も命を狙われてしまう。
 そんな彼女の気持ちを読み取ったダンテは、努めて明るい声で「大丈夫だ」と言い聞かせた。

「いいか? きっとお前にはこれから色んな虫や狼が近づいてくる。それを追い払わなきゃいけなくなるのにうかうか死んでられるか」
「む、虫に狼? どういうことですの? 虫なんて嫌ですわ! それに狼だって、怖いから近づいて欲しくないですわ」

 ロゼッタは頭の中に芋虫やら狼やらを思い浮かべた。
 ダンテはそんな頭の中が手に取るようにわかってしまい、大声で笑う。

 くしゃりと笑う彼を、ロゼッタはまじまじと見つめた。
 彼が始めて見せた顔で、それがあまりにも無防備な笑顔で珍しいのだ。
 いつもはどんなに柔らかな微笑みを浮かべても隙のないように見えていたから、彼もこんな風に笑えるのかと驚いてしまった。

(久しぶりにこんなに笑ったな)

 ダンテは目尻に浮かんだ涙を拭う。

 成人してまもなく爵位を継ぐことになり、子どものように見えてしまう表情や仕草は徹底的に封印した。
 世間を渡り歩き、オークションハウスを守るためだった。
 
 しかしその封印はロゼッタによって解かれてしまった。
 大人のように振舞っているかと思いきや、急に年相応な反応をするのを見ていると、これまでずっと張り詰めていた気持ちがふっと緩んでしまう。
 
「俺が退治してやるから心配するな」

 そのままベッドから出ると、ロゼッタの肩ににガウンをかけた。
 少し眠そうな顔のまま、ベルを鳴らして使用人を呼ぶ。

「今日は一緒に仕事場に行こう。明日は街に出かけような」

 お出かけと聞いてロゼッタは顔を輝かせたが、すぐにしょんぼりと肩を落とす。
 以前までなら素直に喜べたが、黒霧の魔女に恐ろしい宣言をされた今となっては手放しに喜べない。

「危ないからわたくしもダンテも家にいた方がいいですわ」
「ブルーノがいるから大丈夫だ。早く支度してもらえ」

 これが以前なら、彼はきっとこんなこと言い出さなかったはずなのに。
 急に外出に乗り気になった彼を見ると、一体どうしたのだろうかと訝しく思う。

 結局、ロゼッタは外出することになった。
 ラヴィが現れると、ダンテは部屋を出て行った。 


 ◇


 ダンテから外出の話を聞いたラヴィはナナも呼んでロゼッタの身支度に気合を入れたが、彼らが立てた計画はすぐに延期を余儀なくされた。
 リベリオが司祭やら聖騎士やらを引き連れて訪ねてきたのだ。

「会いたかったよ2人とも~!」

 応接室に行くとリベリオは破顔してぶんぶんと大きく手を振ってくる。そんな姿を見ると、ロゼッタはまたもや彼がじゃれついてくる犬に見えてしまった。

「リベリオお前、仮にも公爵家の令息が先触れもなしに来るってどういうことだよ?」
「急いで結界を張りに来たんだよ。昨日、黒霧の魔女にしてやられたんだろう?」

 ロゼッタとの外出を邪魔されたダンテは明らかに不機嫌だが、屋敷の結界を張りに来たと言われてしまえばむげに帰すわけにはいかない。
 ダンテとロゼッタは、遅れて仕事に行くことになった。

 リベリオの指示のもと、司祭たちがぐるりとお屋敷を囲んで詠唱すると、彼らが胸の前に組んでいる手に光が宿る。

「"光よ、この屋敷を闇の力から守りたまえ"」

 リベリオの声が響く。
 彼の詠唱が引き金となって淡い光が放たれて屋敷中を包んだ。

「うそ……まだ隠れていたなんて……」

 ロゼッタは青ざめて目の前の光景を眺めた。
 黒い靄のようなものが出てきて光に焼かれたのだ。
 昨夜もしまたあの靄が悪さをしてきたら。そんなことを考えると肝が冷える。
 それと同時に、ある考えが浮かんできた。

(シルヴェストリ司祭なら、黒霧の魔女に勝てる魔法を知っているかしら?)

 今の自分は魔女に立ち向かう術がない。
 それが彼女の悩みだ。
 なんせ相手は魔法の鍛錬を積んでいるジラルドでも太刀打ちできないほど強い魔女。魔法を使い始めて間もない自分でも彼女から大切な者を守る力が欲しい。

「シルヴェストリ司祭、お願いがありますの」

 ロゼッタは魔法を終えたリベリオの白い装束を、躊躇いがちに引いた。
 リベリオはすぐに気がついて、装束を掴む小さな手を見て微笑む。

 おませさんで大人びた少女だが、こうしてくる姿は年相応で、それもまた愛らしい。

「ん? どうしたんだい?」

 しゃがむとロゼッタは口元に手を添えて、耳元で内緒話をしてくる。
 ダンテとブルーノには聞かせたくない話なのだ。彼らが知ればきっと、ダメだと言って反対してくるだろうから。

「黒霧の魔女と戦える魔法を教えて欲しいですの。さっきみたいな魔法でダンテを守りたいのですわ」
「ふむ、聖属性の魔法を使いたいと」
「わたくしに聖属性の魔法は不可能だと分かっていますわ。属性以外で戦える魔法を教えてくださらない?」
「む~」

 リベリオは頬を人差し指でトントンと叩き、何やら考え込んでいる。

 断られたらどうしようと、ロゼッタははドキドキしながらその様子を見守った。

 彼なら頭から断ったりはしないはずだ。
 他の大人たちは過保護が過ぎて戦う術なんて教えてくれそうにないが、司祭の彼ならまず困った人の話を聞いてくれるはず。

 逆に、彼に断られてしまうと他に頼れるあてがなかった。

「無茶はしないですわ」
「約束ですよ?」

 そう言うと彼も手を口元に添えてロゼッタの耳元に顔を寄せて、こしょこしょと話し始める。

「残念ながら今はまだそんな魔法はないんだ。けどね、もし、ロゼッタ嬢が二属性目に聖属性の魔力を持っているなら使うことができるんだよ」

 二属性を持っていたら。
 そう言いながらリベリオは含みのある視線をダンテに投げかけた。
 もしそうであるのならば、ロゼッタを欲しがる者がまた増えてしまう。

(まず王国騎士団が放っておかないだろうね。それに、聖属性の魔力を持っているなら我われだって彼女が欲しい)

 この世界では稀に二属性を持って生まれる者がいる。
 希少な存在ゆえに、そのたいていは王国魔術師団に呼ばれている。
 ロゼッタを跡継ぎにと考えているダンテには好ましくない状況だ。

(やれやれ、板挟みとは辛いものだ)

 親を失い、大切な人を失った友人から、これ以上奪うようなことをしたくないが。

(優先すべきは黒霧の魔女の排除だ。もし、彼女に近づけるロゼッタ嬢が戦う術を持っていたら、長年にわたる悲劇に終止符を打つことができるまたとない好機に違いない)

 それでも自分のするべきことは黒霧の魔女の排除。私情を挟むことなんてできない。たとえ、大切な友人が悲しむ姿をまた見るかもしれなくとも。

 我ながら酷い人間だと、内心苦笑した。

「少し場所を変えようか。うん、パパにも来てもらって3人でお話しよう」

 美しい司祭は慈愛に満ちた表情を浮かべ、心の中に生まれた企みを隠した。