バルバート邸に帰ってきたロゼッタは、わんわんと泣くナナに抱きつかれてしまった。
前も見えないくらいに涙を溢れさせて泣いているのにも関わらず、彼女は他のメイドにロゼッタの世話を譲ろうとせず、湯あみと怪我の手当てをしてくれた。
「ナナ、心配させてごめんね」
「お嬢様はちっとも悪くありません! ぜんぶ忌まわしい魔女のせいなんですから!」
嗚咽を漏らしながらもそう言うナナの声を聞いていると、ロゼッタの気持ちは落ち着いてきた。
それでもダンテの言葉を思い出すと、一気に心が冷える。
――『……困った子だな。俺はたった1人の家族を手放すつもりはないし、お前が消えたら死ぬつもりだ。俺を独りにしないでくれ』
耳元で囁いたダンテの声は優しかった。
困らせられたのはロゼッタの方だ。自分はダンテに生きていて欲しいというのに、どう転んでも死ぬと宣言されてしまったのだ。
どうしたらいいのかわからなくて、ついに泣いてしまった。
生きていて欲しい。
そう思って彼から離れようとしたのに、自分がいなくなれば死ぬと言われてしまえば離れられない。
「ナナ、悪いけど1人にさせてくれるかしら? 夕食もいらないわ。今日はこのまま寝かせて欲しいの」
「お嬢様……何か口にした方が元気になれますよ」
「本当に、何も食べられそうにありませんの」
ナナはまだ何か言いたげだったが、ロゼッタの手をぎゅっと握ると部屋を後にした。
(ナナも、わたくしが近くにいたら殺されるかもしれないのよね)
励ますように握ってくれた、温かく柔らかな手の感触を思い出す。
(みんな、わたくしがいたら殺されちゃうんだわ)
じわりじわりと、涙が滲んで視界が歪む。涙を拭おうとした手をやんわりと止められて、ブルーノが部屋に入ってきたのに気づいた。
目の前にいるのは、膝をついて目線を合わせてくれている、美しい護衛。
滲んだ視界でも彼の空色の瞳が自分を見ているのがわかる。
「ブルーノ、勝手に部屋に入ってきちゃダメですわ。わたくしは1人にして欲しいのよ」
「……」
彼の気持ちは抗議の言葉を口にしなくても伝わってくる。
1人にさせられない、と気持ちを込めて、指先で優しく涙を拭いてくれるのだ。
そんなことをされると縋りたくなるが、その優しさに頼った結果、これまでの家族を不幸にさせてしまった。
彼の手を止めようとしたその時、扉を叩いてダンテが部屋に入ってきた。
「ブルーノ、大切な話があるから外に出てくれ」
彼の顔を見ると、ロゼッタの表情が強張ってしまった。
正直、彼と目を合わすのが怖かった。自分のせいで死ぬとわかっていながらも離れようとしない相手に、どんな顔をしたらいいのかわからない。
それでも彼の言葉で動揺していると思われるのが癪で、ツンと覚ました顔をしてそっぽを向いた。
「ちょうど寝るところでしたのよ。ダンテも出て行ってくださる?」
「目蓋が腫れるまで泣いていた奴を1人にできねぇよ」
「わたしくしはダンテの顔なんて見たくありませんわ」
ダンテはロゼッタの目蓋に優しくキスした。いつもは軽く触れるくらいなのに、今日はピッタリと唇を寄せている。
泣いて腫れてしまった目蓋の熱は彼の唇が触れた場所から引いてゆく。
まるで魔法みたいで、ヒリヒリとしていた痛みも和らいだ。
「今のお前は1人にしたら逃げてしまいそうだ」
「そうしなきゃダンテは殺されますのよ」
「呪い殺してみろと言ったはずだろ?」
今までは冗談だと思っていた言葉だが、エメラルドの瞳は真っ直ぐに彼女を見つめていて、それが彼の本心なのだと思い知らされる。
彼がどうしてそこまでしてくれるのか、わからない。
(どうして、ダンテはそこまでしてくれるの?)
拾ってくれた理由は知らないまま。尋ねたこともあるが、なんやかんやでかわされてしまう。
(しつこく聞かなかったのは、わたくしはダンテに、本当は嫌われたくなかったからなんだわ……中途半端だったのね)
彼が理由を言いたくないのを感じ取っているからこそ、無理に聞いて嫌われるのを恐れている。
悔しいけど、その根底には彼と一緒にいたいという思いがある。
(わたくしったら本当に嫌な子ね)
それならなおさら今、聞くべきだろう。
そう思ったロゼッタは苦虫を嚙み潰したような顔をする。
困らせて、翻弄させて、嫌ってくれたらいい。
嫌って欲しい。
自分から出て行くと言えないならなおのこと。
「ダンテ、教えて欲しいことがありますの」
「ん?」
「黒霧の魔女が、ダンテは私を身代わりにしていると言っていましたわ。ダンテが昔好きだったジルダ殿下と似ているから引き取ったと。だから私のことは愛してないって」
「……っ!」
ダンテが息をのむのがわかった。
見開かれた目を見て、ロゼッタは胸が苦しくなった。
そんな彼女に追い討ちをかけるように、彼は言葉を続ける。
「……お前があいつに似ているから引き取ったのは事実だ」
頭の後ろを殴られたような衝撃だった。
黒霧の魔女に啖呵をきったけれど、いざ彼の口からその言葉が出てくると胸がツキンと痛くなる。
黒霧の魔女の言葉が頭の中を反芻して、彼女の心を悪い方へと引っ張ってゆく。
「私は、ダンテのお人形でしたのね。どうしてダンテは私の父親にはなってくれないのかわかりませんでしたわ。なんでわたくしを引き取ったのかもわからなくてモヤモヤしていましたの」
震える声を絞り出した。
裏切られたような気がして、あとからあとから怒りがこみ上げてくる。
「すまない……。そんな理由を言われたら不快な思いをするのはわかっていた」
「ええ、わたくしは人間であってお人形じゃありませんもの!」
ロゼッタは珊瑚色の瞳でダンテを睨みつける。
「それに、ダンテは時どき私を見ながら他の人を見ているような顔をしていましたわ!」
「ロゼッタ……すまない」
パンッと音がした。
ロゼッタがダンテの手を叩いたのだ。
頬を撫でようと伸ばしてくるその手に触れられたくなくて、拒むように叩いた。
手がヒリヒリとするが、それでも痛みを我慢して、彼の顔を睨み上げた。
手よりも心が痛くて苦しくてしかたがなくて、怒りをそのまま彼にぶつける。
「わたくしは、誰の代わりにもならないですわ! わたくしはわたくしですもの!」
「ああ、お前の代わりなんていない」
ダンテはソファの前に膝を突き、腰かけているロゼッタの両側に手をついて彼女を閉じ込めた。
「この世で1番大切なのはお前だ。その気が強い性格も、真っ直ぐな瞳も、守っていたい」
「ジルダ殿下に似ているから大切なんでしょう?」
「違う。俺は本当に、家族としてお前が大切なんだ。ローゼと……ジルダ殿下への気持ちとは違うんだ。わかってくれ。身代わりとしてお前を愛しているんじゃない」
懇願するように見つめてくるエメラルドの瞳にはいつもの輝きがない。
「俺の前から消えないでくれ」
泣きそうな顔をしているダンテを見て、ロゼッタは何も言えなくなった。
(こういうときに、嫌いって、言えたらいいのに)
捨てられた犬のような表情を浮かべる彼に向かって言うことはできなくて。
立ち上がって抱きしめると、小さな手を精一杯伸ばして彼の頭を撫でた。頬に当たる彼の髪はサラサラで、甘くも爽やかな香りがする。
ダンテは彼女を引き寄せて、何も言わずに抱きしめた。
いつも憎まれ口を叩き合う2人は、静寂が降りた部屋の中で、心の中でお互いのことを想った。
やがてずっと撫でていた手は疲れてしまい、ロゼッタは手を下ろすと頭をダンテに預ける。
すると、彼の胸ポケットの中から乾いた紙の音がした。
「……まだ持っていますのね」
「当たり前だ。お前から初めてもらった手紙を誰にも触れさせるつもりはない」
ダンテは甘えるように彼女の頭に顔を埋める。
どちらが子どもか分からないとロゼッタは思ってしまった。
「ダンテ、泣かないで」
「お前がいなくなったら、泣きながら死んでやる」
「そんなことを言っちゃダメよ。命を大切にして欲しいわ」
「安心しろ。お前を守る以外にこの命を捨てるつもりはねぇよ」
そんなことを言われてしまうと、ますます嫌われようとするのが躊躇われる。
「ダンテ、跡取りなら他の子にしたらいいのよ。わたくしよりうんと真面目でよい子はたくさんいるわ。きっとダンテのそばにいてくれて、寂しい気持ちから助けてくれるはずよ」
「ロゼッタの代わりなんていない。この手紙を貰った日から、お前のことしか考えられねぇんだ。俺を【親】にしてくれたのは、お前だ」
涙腺は壊れてしまったのか、ぽろぽろと涙が伝い落ちて、もう我慢ができなかった。
「泣くほど一緒にいるのが嫌なのか?」
泣いていているところを見られたくなくて、顔をそむける。
それでも彼の視線はありありと感じられて、いたたまれない。弱い気持ちになっているのを知られたくないのに、彼の言葉を聞いているとどんどん我慢ができなくなって、弱い姿が晒されてゆく。
「わたくしはダンテに生きていて欲しいですの。でも黒霧の魔女はわたくしが生きている限りダンテたちを殺すつもりでいるから、わたくしはここから出て行かないといけませんのよ?」
「本当は俺と一緒にいたいけど、一緒にいられなくて悲しいから泣いているって、思っていいんだな?」
ロゼッタは逡巡したが、黙ってこくりと頷いた。それと同時に、またポロポロと涙がこぼれる。
我慢していた気持ちを表に出すと、どうしても涙が一緒に出てきてしまう。
ダンテはそんな彼女を見て、柔らかな微笑みを浮かべた。
「それならそうと、前みたいに我儘を言ってくれればいい」
彼女が一緒にいたいと思ってくれていることが嬉しくて、しかも自分のためを想って泣いてくれているのがたまらなく愛おしい。
指先でそっと彼女の涙を拭う。
「ダンテに死んで欲しくないですわ」
「それならここにいろ。お前が目の前からいなくなれば俺は死ぬつもりだ。黒霧の魔女に殺されるより先に死んでやるよ」
「なんで? どうしてですの?」
「お前が俺のすべてだからだ。お前が何を考えているのか、何をしたら笑顔になるのか、ずっと考えてる」
傍にいれば黒霧の魔女に狙われているし、かといって彼の前から姿を消せば自ら命を断つと、改めて宣言されてしまった。
どちらもロゼッタが望まないことだ。
「絶対に手放さないし、逃がしやしない」
「黒霧の魔女ぐらいタチが悪いですわ」
逃げ道を失った少女はダンテを睨み上げる。
「そうだな。こんな厄介な奴に愛されてしまっただなんて、同情するよ。もう諦めて傍に居てくれ」
ダンテはロゼッタを抱きしめた。
耳に届くのは彼の心音。心につっかえている不安はあるが、目を閉じて心音を聞いているとどこか安心してしまう自分がいて。
そのまま眠ってしまいそうな彼女の背を、ダンテの手が優しく叩く。
「夕食を食べてないだろ? 何か口にしないと元気が出ないぞ」
そう言ってカストに食べ物を持ってこさせた。目の前に置かれたのは、パンプティングとホットミルクだ。
ダンテは取り分けたパンプティングにふぅっと息を吹きかけて冷ますと、ロゼッタの口元に持っていく。
さっきまではこれっぽっちも食欲がなかったのに、蜂蜜やバターのいい匂いに誘われるようにお腹が鳴りそうになった。
「温かいうちがうまいぞ」
いつもなら「自分で食べられますわ!」と言って止まさせたいところだが、今日は彼に甘えたかった。
促されて、大人しく口を開けて食べさせてもらった。
ふわふわのパンプティングは噛みしめるとじゅわっと蜂蜜が染み出してきて、口いっぱいに優しい甘さが広がる。
「おいしい……」
温かい食べ物を飲み込むと、身体も心も温かくなった。
するとまた、もう一口食べろと言わんばかりにダンテが切り分けたパンプティングを口元に運んでくる。
躊躇いがちに彼の顔を盗み見ると、エメラルドの瞳を甘くした優しい表情で見つめてくれている。
「怖い夢を見ねぇように、今日は一緒に寝ような。俺が守るから安心して寝たらいい」
「結構ですわ」
「そう言うな。もっと甘えろ」
命令されて甘えるもんではない。
そう抗議してやろうかと思ったが、ダンテの顔を見ると途端にその気も失せてしまって、「しかたがないですわね。ダンテを甘やかしてあげますわ」と返した。
前も見えないくらいに涙を溢れさせて泣いているのにも関わらず、彼女は他のメイドにロゼッタの世話を譲ろうとせず、湯あみと怪我の手当てをしてくれた。
「ナナ、心配させてごめんね」
「お嬢様はちっとも悪くありません! ぜんぶ忌まわしい魔女のせいなんですから!」
嗚咽を漏らしながらもそう言うナナの声を聞いていると、ロゼッタの気持ちは落ち着いてきた。
それでもダンテの言葉を思い出すと、一気に心が冷える。
――『……困った子だな。俺はたった1人の家族を手放すつもりはないし、お前が消えたら死ぬつもりだ。俺を独りにしないでくれ』
耳元で囁いたダンテの声は優しかった。
困らせられたのはロゼッタの方だ。自分はダンテに生きていて欲しいというのに、どう転んでも死ぬと宣言されてしまったのだ。
どうしたらいいのかわからなくて、ついに泣いてしまった。
生きていて欲しい。
そう思って彼から離れようとしたのに、自分がいなくなれば死ぬと言われてしまえば離れられない。
「ナナ、悪いけど1人にさせてくれるかしら? 夕食もいらないわ。今日はこのまま寝かせて欲しいの」
「お嬢様……何か口にした方が元気になれますよ」
「本当に、何も食べられそうにありませんの」
ナナはまだ何か言いたげだったが、ロゼッタの手をぎゅっと握ると部屋を後にした。
(ナナも、わたくしが近くにいたら殺されるかもしれないのよね)
励ますように握ってくれた、温かく柔らかな手の感触を思い出す。
(みんな、わたくしがいたら殺されちゃうんだわ)
じわりじわりと、涙が滲んで視界が歪む。涙を拭おうとした手をやんわりと止められて、ブルーノが部屋に入ってきたのに気づいた。
目の前にいるのは、膝をついて目線を合わせてくれている、美しい護衛。
滲んだ視界でも彼の空色の瞳が自分を見ているのがわかる。
「ブルーノ、勝手に部屋に入ってきちゃダメですわ。わたくしは1人にして欲しいのよ」
「……」
彼の気持ちは抗議の言葉を口にしなくても伝わってくる。
1人にさせられない、と気持ちを込めて、指先で優しく涙を拭いてくれるのだ。
そんなことをされると縋りたくなるが、その優しさに頼った結果、これまでの家族を不幸にさせてしまった。
彼の手を止めようとしたその時、扉を叩いてダンテが部屋に入ってきた。
「ブルーノ、大切な話があるから外に出てくれ」
彼の顔を見ると、ロゼッタの表情が強張ってしまった。
正直、彼と目を合わすのが怖かった。自分のせいで死ぬとわかっていながらも離れようとしない相手に、どんな顔をしたらいいのかわからない。
それでも彼の言葉で動揺していると思われるのが癪で、ツンと覚ました顔をしてそっぽを向いた。
「ちょうど寝るところでしたのよ。ダンテも出て行ってくださる?」
「目蓋が腫れるまで泣いていた奴を1人にできねぇよ」
「わたしくしはダンテの顔なんて見たくありませんわ」
ダンテはロゼッタの目蓋に優しくキスした。いつもは軽く触れるくらいなのに、今日はピッタリと唇を寄せている。
泣いて腫れてしまった目蓋の熱は彼の唇が触れた場所から引いてゆく。
まるで魔法みたいで、ヒリヒリとしていた痛みも和らいだ。
「今のお前は1人にしたら逃げてしまいそうだ」
「そうしなきゃダンテは殺されますのよ」
「呪い殺してみろと言ったはずだろ?」
今までは冗談だと思っていた言葉だが、エメラルドの瞳は真っ直ぐに彼女を見つめていて、それが彼の本心なのだと思い知らされる。
彼がどうしてそこまでしてくれるのか、わからない。
(どうして、ダンテはそこまでしてくれるの?)
拾ってくれた理由は知らないまま。尋ねたこともあるが、なんやかんやでかわされてしまう。
(しつこく聞かなかったのは、わたくしはダンテに、本当は嫌われたくなかったからなんだわ……中途半端だったのね)
彼が理由を言いたくないのを感じ取っているからこそ、無理に聞いて嫌われるのを恐れている。
悔しいけど、その根底には彼と一緒にいたいという思いがある。
(わたくしったら本当に嫌な子ね)
それならなおさら今、聞くべきだろう。
そう思ったロゼッタは苦虫を嚙み潰したような顔をする。
困らせて、翻弄させて、嫌ってくれたらいい。
嫌って欲しい。
自分から出て行くと言えないならなおのこと。
「ダンテ、教えて欲しいことがありますの」
「ん?」
「黒霧の魔女が、ダンテは私を身代わりにしていると言っていましたわ。ダンテが昔好きだったジルダ殿下と似ているから引き取ったと。だから私のことは愛してないって」
「……っ!」
ダンテが息をのむのがわかった。
見開かれた目を見て、ロゼッタは胸が苦しくなった。
そんな彼女に追い討ちをかけるように、彼は言葉を続ける。
「……お前があいつに似ているから引き取ったのは事実だ」
頭の後ろを殴られたような衝撃だった。
黒霧の魔女に啖呵をきったけれど、いざ彼の口からその言葉が出てくると胸がツキンと痛くなる。
黒霧の魔女の言葉が頭の中を反芻して、彼女の心を悪い方へと引っ張ってゆく。
「私は、ダンテのお人形でしたのね。どうしてダンテは私の父親にはなってくれないのかわかりませんでしたわ。なんでわたくしを引き取ったのかもわからなくてモヤモヤしていましたの」
震える声を絞り出した。
裏切られたような気がして、あとからあとから怒りがこみ上げてくる。
「すまない……。そんな理由を言われたら不快な思いをするのはわかっていた」
「ええ、わたくしは人間であってお人形じゃありませんもの!」
ロゼッタは珊瑚色の瞳でダンテを睨みつける。
「それに、ダンテは時どき私を見ながら他の人を見ているような顔をしていましたわ!」
「ロゼッタ……すまない」
パンッと音がした。
ロゼッタがダンテの手を叩いたのだ。
頬を撫でようと伸ばしてくるその手に触れられたくなくて、拒むように叩いた。
手がヒリヒリとするが、それでも痛みを我慢して、彼の顔を睨み上げた。
手よりも心が痛くて苦しくてしかたがなくて、怒りをそのまま彼にぶつける。
「わたくしは、誰の代わりにもならないですわ! わたくしはわたくしですもの!」
「ああ、お前の代わりなんていない」
ダンテはソファの前に膝を突き、腰かけているロゼッタの両側に手をついて彼女を閉じ込めた。
「この世で1番大切なのはお前だ。その気が強い性格も、真っ直ぐな瞳も、守っていたい」
「ジルダ殿下に似ているから大切なんでしょう?」
「違う。俺は本当に、家族としてお前が大切なんだ。ローゼと……ジルダ殿下への気持ちとは違うんだ。わかってくれ。身代わりとしてお前を愛しているんじゃない」
懇願するように見つめてくるエメラルドの瞳にはいつもの輝きがない。
「俺の前から消えないでくれ」
泣きそうな顔をしているダンテを見て、ロゼッタは何も言えなくなった。
(こういうときに、嫌いって、言えたらいいのに)
捨てられた犬のような表情を浮かべる彼に向かって言うことはできなくて。
立ち上がって抱きしめると、小さな手を精一杯伸ばして彼の頭を撫でた。頬に当たる彼の髪はサラサラで、甘くも爽やかな香りがする。
ダンテは彼女を引き寄せて、何も言わずに抱きしめた。
いつも憎まれ口を叩き合う2人は、静寂が降りた部屋の中で、心の中でお互いのことを想った。
やがてずっと撫でていた手は疲れてしまい、ロゼッタは手を下ろすと頭をダンテに預ける。
すると、彼の胸ポケットの中から乾いた紙の音がした。
「……まだ持っていますのね」
「当たり前だ。お前から初めてもらった手紙を誰にも触れさせるつもりはない」
ダンテは甘えるように彼女の頭に顔を埋める。
どちらが子どもか分からないとロゼッタは思ってしまった。
「ダンテ、泣かないで」
「お前がいなくなったら、泣きながら死んでやる」
「そんなことを言っちゃダメよ。命を大切にして欲しいわ」
「安心しろ。お前を守る以外にこの命を捨てるつもりはねぇよ」
そんなことを言われてしまうと、ますます嫌われようとするのが躊躇われる。
「ダンテ、跡取りなら他の子にしたらいいのよ。わたくしよりうんと真面目でよい子はたくさんいるわ。きっとダンテのそばにいてくれて、寂しい気持ちから助けてくれるはずよ」
「ロゼッタの代わりなんていない。この手紙を貰った日から、お前のことしか考えられねぇんだ。俺を【親】にしてくれたのは、お前だ」
涙腺は壊れてしまったのか、ぽろぽろと涙が伝い落ちて、もう我慢ができなかった。
「泣くほど一緒にいるのが嫌なのか?」
泣いていているところを見られたくなくて、顔をそむける。
それでも彼の視線はありありと感じられて、いたたまれない。弱い気持ちになっているのを知られたくないのに、彼の言葉を聞いているとどんどん我慢ができなくなって、弱い姿が晒されてゆく。
「わたくしはダンテに生きていて欲しいですの。でも黒霧の魔女はわたくしが生きている限りダンテたちを殺すつもりでいるから、わたくしはここから出て行かないといけませんのよ?」
「本当は俺と一緒にいたいけど、一緒にいられなくて悲しいから泣いているって、思っていいんだな?」
ロゼッタは逡巡したが、黙ってこくりと頷いた。それと同時に、またポロポロと涙がこぼれる。
我慢していた気持ちを表に出すと、どうしても涙が一緒に出てきてしまう。
ダンテはそんな彼女を見て、柔らかな微笑みを浮かべた。
「それならそうと、前みたいに我儘を言ってくれればいい」
彼女が一緒にいたいと思ってくれていることが嬉しくて、しかも自分のためを想って泣いてくれているのがたまらなく愛おしい。
指先でそっと彼女の涙を拭う。
「ダンテに死んで欲しくないですわ」
「それならここにいろ。お前が目の前からいなくなれば俺は死ぬつもりだ。黒霧の魔女に殺されるより先に死んでやるよ」
「なんで? どうしてですの?」
「お前が俺のすべてだからだ。お前が何を考えているのか、何をしたら笑顔になるのか、ずっと考えてる」
傍にいれば黒霧の魔女に狙われているし、かといって彼の前から姿を消せば自ら命を断つと、改めて宣言されてしまった。
どちらもロゼッタが望まないことだ。
「絶対に手放さないし、逃がしやしない」
「黒霧の魔女ぐらいタチが悪いですわ」
逃げ道を失った少女はダンテを睨み上げる。
「そうだな。こんな厄介な奴に愛されてしまっただなんて、同情するよ。もう諦めて傍に居てくれ」
ダンテはロゼッタを抱きしめた。
耳に届くのは彼の心音。心につっかえている不安はあるが、目を閉じて心音を聞いているとどこか安心してしまう自分がいて。
そのまま眠ってしまいそうな彼女の背を、ダンテの手が優しく叩く。
「夕食を食べてないだろ? 何か口にしないと元気が出ないぞ」
そう言ってカストに食べ物を持ってこさせた。目の前に置かれたのは、パンプティングとホットミルクだ。
ダンテは取り分けたパンプティングにふぅっと息を吹きかけて冷ますと、ロゼッタの口元に持っていく。
さっきまではこれっぽっちも食欲がなかったのに、蜂蜜やバターのいい匂いに誘われるようにお腹が鳴りそうになった。
「温かいうちがうまいぞ」
いつもなら「自分で食べられますわ!」と言って止まさせたいところだが、今日は彼に甘えたかった。
促されて、大人しく口を開けて食べさせてもらった。
ふわふわのパンプティングは噛みしめるとじゅわっと蜂蜜が染み出してきて、口いっぱいに優しい甘さが広がる。
「おいしい……」
温かい食べ物を飲み込むと、身体も心も温かくなった。
するとまた、もう一口食べろと言わんばかりにダンテが切り分けたパンプティングを口元に運んでくる。
躊躇いがちに彼の顔を盗み見ると、エメラルドの瞳を甘くした優しい表情で見つめてくれている。
「怖い夢を見ねぇように、今日は一緒に寝ような。俺が守るから安心して寝たらいい」
「結構ですわ」
「そう言うな。もっと甘えろ」
命令されて甘えるもんではない。
そう抗議してやろうかと思ったが、ダンテの顔を見ると途端にその気も失せてしまって、「しかたがないですわね。ダンテを甘やかしてあげますわ」と返した。